ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

79歳の憧れ 

 

別に聴き手の存在を意識して弾いていることはない。本番では余裕もないし。でも褒めてもらえば単純に嬉しい。凄く嬉しい。社交辞令かどうかは相手の反応で分かる。これは褒められて嬉しいというよりは、自分が感じたものを共有できたという喜びに近い。自分が感じたものを感じてくれたみたいな?めったに「ねえ、あなた32か所ミスしたでしょ?」なんて聴き方をする人なんていない。聴き手はストレートに聴く。

演奏した本人はミスや出来栄えを非常に気にする。でも聴き手は上手、下手を聴きに来ているわけではない。なのでミスに関しては非常に寛容なところがある。誰でも聴き手の立場だとそう聴くと思うのだが、自分が演奏するとなると、その感覚を忘れてしまう。むろん、ミスの連発で音楽のシェイプまで崩れてしまうと、そりゃあ聴き手も困るだろうが・・・

聴き手は何を聴きたいのだろうか?ミスには寛容かもしれないが、逆に何も伝わってこない演奏には不寛容だ。ツラツラと音符だけ達者に並べている演奏には怖いほど不寛容。口にはしないけど。演奏って、惹きつけられるか否かは、聴き始めてすぐに感じるものだ。聴き手は正直だから、ツラツラ演奏を退屈して聴いているものだ。「早く終わらないかなぁ・・・」と。むろん、こちらも口にはしないけど。

ザックリと表現してしまえば、心を感じる演奏を聴き手は求めている。惹きつけられたいし、感動を求める。ずっと椅子に座り続けているわけだし、「何か」のない演奏を聴くのは大変なのだ。

サクサクと難曲を弾いていても、聴いていて退屈なことはある。逆もある。トツトツと弾いていて、指さばきもそれなりなのだが、「えっ、なんだかいい感じ?」みたいな?これは演奏者自身が自分がかつて受けた感動をそのまま出そうとしているからだと思う。「素敵だな」と演奏者自身が感じたものを追っているから。その素敵部分を感じて弾いているから聴き手に伝わる。決してレベルとか達者かどうかとか、ミスがどうということではない。

ある一定以上のレベルになってから表現するとか、感動を伝えるなんてプロだけができること・・・そんな身の丈思想は捨ててしまったらどうだろう?自分が聴き手をして感じることは、他人も同じように感じるはずだ。最初からそこを目指す。そうであれば、たとえ何かの要素が拙くても伝わるものがあるのではないだろうか?

この人は、歌を聴いて感動したのだと思う。コレッリの歌唱かもしれないし、ディ・ステファノかもしれない。あるいはデル・モナコ?誰でもいい。とにかく歌手の歌に感動したのだと思う。そして思ったのだ。「ああ、僕もこんなふうに歌えたらどんなにいいだろう」と。さらに「歌ってみたい・・・」となったのだと思う。自分を抑えることなんてできない。感情の高ぶりを抑えることなんてできない。「歌ってなんて素晴らしいんだろう?音楽ってなんて素晴らしいんだろう?」

それが77歳の時。「僕も歌ってみたい・・・」

彼は身の丈思想に負けなかった。いろいろと感じるところはあったのかもしれないが、情熱と愛情がそれに勝った。だから歌っているのだ。この動画は79才の時の歌唱。

聴き手として何を感じるだろう?発声がどうたらとか?ディクションがどうたらとか?彼が感じたものを聴き手も感じないだろうか?感じたのだとしたら、それは「何か」を彼と共有したということだ。

kaz




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