ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

脱・・・身の丈思想 

 

誕生日にはまだ早いような気がするが、友人のルカがプレゼントを送ってくれた。「50代って人生で最も輝いている年齢だよね」という言葉と共に。小包を開けてみると、ナポレターナだった。ナポリ式コーヒーメーカー。まだ淹れてはいない。豆なんかは、そのへんのスーパーのものでいいのだろうか?スターバックスというのもちょっと違うような気がするし・・・調べてみよう。

そのナポレターナを見ながらコレッリのナポレターナを聴いたりしている。ナポレターナの似合う歌手はディ・ステファノかなと個人的には思う。まさしくイタリアの空のような声。コレッリは情熱的。自分の感情のすべてを歌にぶつけているような?

コレッリの「彼女に告げて」を聴いていると、自分の中に「表現したい」という欲求が生まれてくる。むろん、歌ではなくピアノで。

どうも自分の演奏は一本調子で抑揚に欠けると感じる場合、しかも人の演奏を聴いて感動はできるけれど、自分の演奏には反映させることができないという場合、これは聴き方の問題があるように思う。基本的には音楽を聴く時には全体を聴く。大雑把というのとは違うと思うけれど、「この部分の○○が素晴らしい」という部分聴きではなく、全体を聴くというのかな?

もし、自分が受けた感動を反映させたい、「ああこのように弾けたら・・・」と感じることができるのなら、ちょっとだけ意識して部分的に聴いてみたらいいかもしれない。感動させる要素みたいなものを意識して聴こうとしてみる。拾ってみる。

「ああ、こんなふうに弾けたら・・・」「素敵だな・・・」と感じるピアノ演奏のCDを聴いてみる。聴衆として全体を聴くのではなく、「あっ、いいな」と感じた瞬間を楽譜に記してみる。意外とできないのではないかな?このような「聴くということの意識化」は大事だと思うが、さらに大切なのが「身の丈思想」をしないということ。「だって私はプロじゃないし」みたいな。

全体的にせよ、さらに進んで、魅力的と自分が感じた要素、演奏家の裏ワザみたいなものを細かく感じとれるにせよ、自分が感じた「何か」を追うというのは凄く楽しいことだと思う。それを阻むのが「身の丈思想」「なんちゃってハイフェッツ症候群」みたいなもの。謙虚は美徳?でも自分の感性には誠実ではないかも?

たしかサン=テグジュペリの言葉だったかな?「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」いい言葉だな。これをピアノ道にも当てはめてみる。あとはピカソの言葉、「できると思えばできる。できないと思えばできない」とか・・・

「彼女に告げて」は、典型的なイタリア~ンソングという感じだ。情熱的なんだけど、ちょっと感傷的というか?

彼女に告げて欲しい
眠ることも夢見ることもできないんだと
いつも想っている
彼女は私の命なのだと
伝えたい・・・
でも言えないんだ・・・

彼女を愛している とても愛している
何を考えている?
真実を語りあおう
愛しているのは君なんだ
生きるために君が欲しい

そんなに好きだったら自分で言えば~?などと日本的に考えてはいけないね。コレッリは歌詞の感情を曲に乗せているね、見事なまでに。

「ああ、コレッリのように歌ってみたい、一生かかってもいいから・・・」

そう感じたなら歌ってみればいいのだ。「まっ、彼はプロだし・・・」と身の丈思想に逃げないで・・・

身の丈思想に逃げないで、やってみればいい。できなくてもね。たとえコレッリのようには歌えなくても、お互いに憧れを共有したことにはなるでしょ?素晴らしいことじゃあないか・・・

kaz




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