ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

萌えどころを逃さない 

 

現在であれば、マキシム・ヴェンゲーロフが、かつてのズーカーマン、パールマン、そしてハイフェッツのような立ち位置にいるヴァイオリニストなのではないかと個人的には感じている。ハイフェッツ症候群をひき起こしてしまう要因となるヴァイオリニスト?もう、これは好き嫌いの問題とは別のことのような気がする。カリスマ性ということだろうか?関係はあるが、すべてではない。勢いのようなもの?華がある・・・みたいな?おそらく、多くのヴァイオリニストは彼に対して「う~ん、こういうふうに弾かれちゃうと困っちゃうんだよなぁ・・・」みたいなところがあるのではなかろうか?

ヴェンゲーロフの公開レッスン映像がとても面白い。実はこの動画は以前にも貼りつけたことがある。「ピアノの先生も間近でこのように弾いて欲しい。それはスターピアニストの演奏会よりも生徒の印象に残るから」みたいなことを書いた。たしかに一部分でも「えっ、全然違う・・・」と直感で感じれば生徒は伸びるだろうと思う。「歌って~」と言われるだけよりは違うと思う。実際に歌っているピアノを聴くのとはね。自分の演奏の直後の先生の音色・・・その違いを感じる大切さというのかな?

今回は同じ動画でも貼りつけた趣旨(?)が異なる。それは1ミリの差というものが、聴いている方にとっては何万光年もの差に聴こえてしまうということ。ちょっとした強調?「ほら、そこはそんなふうに普通に弾いてしまわないで、こんなふうに・・・」ヴェンゲーロフが生徒の演奏を止めて注意・・・ではないな、サジェスチョンを与える箇所、それは曲の「萌えどころ」「聴かせどころ」でもある。

生徒とヴェンゲーロフとの差は聴く側にとっては歴然としたものとして聴こえてくるが、差は1ミリという差ではある。4人の生徒が登場するが、皆とても上手だ。個人的には2番目にサラサーテを弾いている女の子が凄いと思う。ファンになってしまいそうだ。でもヴェンゲーロフとは違うんだねぇ。

生徒の演奏は「こうあるべき」「このような演奏をすべき」という課題を訓練によって埋めてきたという印象。むろん、生徒の演奏だけを聴くと、上手だな、時にはヴェンゲーロフは、この演奏に対して何か言うことなんかあるのだろうか・・・とさえ感じることさえある。特にサラサーテの生徒。

でも生徒とヴェンゲーロフは、1ミリの深さが違う。音の遠近感、そして横の流れの収縮、そして強調。聴く方には大きな違いとして聴こえてきてしまう。公開レッスンで、ヴェンゲーロフは生徒の演奏を止めた後、同じ部分を弾いてくれるので、その差、違いがよく分かって非常に面白い。

生徒は皆上手い、というか、素晴らしい。でも聴き手の立場になってみる。この生徒たちが演奏会を行うとする。もう僕は生徒たちの演奏を聴いてしまっているので、僕はお金を払ってまで聴きたいとは思わない。下手ではなく上手だし、音楽的にもまとまっているとは思うけれど、聴きには行かない。でもヴェンゲーロフの演奏だったらお金を払って聴きたいと思う。それはこちらが感動するかどうか、何かを共有できるかどうか。聴き手は素人なのかもしれないが、そのあたりは厳しいし正直なのだ。上手さを聴きたいわけでもないし、達者度を確認したいわけでもないのだ。何かを感じたいのだ。それは1ミリの差で決まってくるのかもしれない。

ヴェンゲーロフはこう言っているように思う。

「ねぇ、どうしてそんなに素敵な箇所をサラサラと普通に弾いてしまうの?曲の中には萌えどころが沢山あるじゃない?そこを逃したら曲が可哀そうじゃない?」と。

kaz




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