ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

輪廻転生 

 

選曲をし、練習して、そして人前で披露する・・・当たり前の流れだけれど、ここには大切な三つの過程があるように思う。

① 曲や、その曲に秘められた、ある要素みたいなものに惹かれる、あるいは、その要素を自分に感じさせてくれた、ある人の演奏に惹かれる。その曲を選曲した動機のようなもの?この部分は「聴く」ということの大切さと密接な部分。

② 実際に自宅で練習する。レッスンで教師のアドバイスを受ける・・・という部分。この部分が苦しくもある。ややもすると、①のことを忘れてしまいがちなほどだ。最初から弾ける人などいないわけだから、どうしても自分の「できないところ」を見つめることになる。できない→できる、弾ける・・・練習なのだから、それが目的ではあるけれど、そのまま次の③の部分でそれを全面に出してしまっていいものかどうか?そこは疑問が残る。中には①のことを全く忘れてしまう人もいる。それどころか①の部分などなく、いきなり②からスタートしてしまう人もいる。

③ 本番。選曲、練習、そして最後の本番なわけだが、この部分は右往左往してしまう部分でもある。緊張してしまうから。「会場が火事になればいいのに・・・」火事の確率は極めて低いので、やはり人前で演奏しなければならない。ここで陥りがちなのは、②のことを意識しすぎてしまうということ。むろん、②は③を想定して進めるべきもので、そこで気持ちの乖離はない方がいい。でも「あそこが心配」とか、②での成果ばかりを気にしすぎてしまうのはどんなものだろう?①にも②にも存在しなかった「聴き手」の存在がある。むしろ、③の段階では②よりも①の部分を見つめるべきでは?

音楽って演奏が終わってしまうと、そこで音もなくなってしまうわけだけれど、何も残らないのだろうか?音楽の儚げなその部分に惹かれるわけだが、音が消えてもそれは聴き手の中で残像として残る。この「残る」という部分は、実は①につながっていく。もし、聴いている人の心の中に、何かが残る、何かが伝わっているのだったら、それは演奏者が聴いている人に①を与えた可能性があるのだ。そして新たな①~③がどこかで繰り返されていく。

輪廻転生・・・そう、つながっているのだ。その「つながり」を無意識でも演奏者は分断してしまうことがある。聴き手の存在を忘れてしまうことによって。「自分の出来栄え」という自分のことだけに終わってしまうことによって・・・

①②③はすべてリンクしているべきではないだろうか?バランスよく・・・

ギオマール・ノヴァエスの演奏を聴くフレイレ、彼女の演奏に感銘を受けているのが見ていても分かる。これはカメラの前の演技ではないね。目がウルウルしているもの。ノヴァエスはフレイレにとっては恩人のようなピアニストではなかったか?実際に自分のキャリアを開いてくれた人でもあるし、同郷の音楽家として崇拝していただろう。今でもそうなのかもしれないが、フレイレの修業時代は、ブラジルに限らず、南米のピアニストへの偏見などもあったのではないかと想像する。ましてや、ノヴァエスは19世紀生まれのピアニストだ。その人がこのような演奏を残している・・・そんな思いもフレイレにはあったのかもしれない。フレイレの①の部分・・・

動画の後半はフレイレの③の部分を収録している。聴き手に注目して頂きたい。やはり感銘を受けている人がいる。その人たちはフレイレからのギフトを貰った。フレイレのギフトを感じる感性を持っているのだろう。この中の誰かはピアノを弾く人かもしれない。その人たちは、①をフレイレから貰った。それは忘れがたいものとして残るだろう。ピアノを弾く人は、さらに③を目指すかもしれない。

ノヴァエスからフレイレへ・・・そしてフレイレから誰かへ・・・

輪廻転生なのだ。どんなに本番が恐ろしくても、この輪廻を自分で切断したら勿体ない。「プロじゃないんだから」「趣味のピアノなんだしぃ・・・」①のない人はそれもありだろう。でもそれは謙虚ということとは違うような気がする。

kaz




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