ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

街中ライブ 

 

本番が近づく。「きちんと弾けるかしら?」「舞台で真っ白になったらどうしよう?」

そうならないためにも練習しているわけだ。どんな人でも練習の成果は出て欲しいだろうし、失敗は望まないものだ。

「演奏っていうものはね、自分がどう弾けたかなんて関係ないの。聴いていた人がどう感じたかが大切なの。覚えておきなさいね」ピアニスト、原 智恵子の言葉。僕が直接言われたわけではないけれど・・・

聴いていた人?そんなぁ・・・プロじゃないんだしぃ・・・

むろん、「弾く」それも「人前」で弾くということだけにも意義はあるのかもしれないが、プロだろうとアマチュアだろうと「趣味なんで~す」だろうと、本番では聴き手がいる。聴き手はどう感じるだろうか?この部分は、なんとなく弾きこなせて、そのうえでの「余裕」で考える・・・みたいな?それでいいのだろうか?

「自分の出来栄え」だけを考えてしまいがちだけれど、聴き手は実際に存在するのだ。おそらく、アマチュアの演奏会だろうと何だろうと、無料の演奏会だろうと発表会だろうと、聴き手は確実に半日を潰すのだ。わざわざ電車に乗って会場まできているのだ。

「弾けますように~」だけで演奏者はいいのだろうか?

本番近くなった時に、こう想像してみてはどうだろう?街中でピアノを弾く、路上ライブ?歩行者は、自分の演奏を聴いて立ち止まって聴いてくれるだろうか?何人かでも興味を示してくれるだろうか?最後まで聴いて拍手をしてくれるだろうか?演奏会場の聴き手と違って、「つまらん」と思えば、去ってしまうだろうし、そもそも立ち止まらないだろう。何の義理もない関係のない人が、演奏を聴くために立ち止まってくれるか・・・

「そんなぁ・・・無理だわぁ・・・」

だとしたら、演奏会場の聴き手も同じだろう。礼儀正しく座って聴いてくれるだろうし、拍手もしてくれるだろうが・・・

「この演奏じゃ誰も聴きたい、聴いてよかったなんて思わないだろうなぁ・・・」そうだとしたら、なぜ人前で弾くのだろう?聴き手は我慢するもの?街中ライブだと許されない演奏だけど、内輪の会(?)なら許される?聴き手は同じように存在しているのだとしたら?

「弾けるかしら?」「失敗しないかしら?」「練習の成果が出ますように・・・」

そういった自分のことだけではなく、ちょっとだけ聴き手の存在を意識してみる。趣味だろうと何だろうと・・・

銀座の街で弾くと仮定してみる。誰か一人でも立ち止まって聴いてくれるだろうか?拍手をしてくれるだろうか?最後まで聴いてくれるだろうか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: Anderson & Roe

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top