あるオーディションにて
「音を外すような人間に音楽をする価値はない」「完璧に演奏するのが先。それまでは歌い上げるのは、おこがましい」「音楽的に演奏するなんてキレイごと。やはり間違えるのはダメ」
バジル・クリッツァ―という人のブログによると、このような呪縛に捉われている人が多いのではないかと。それでいいのだろうかとバジルさんは疑問を投げかけている。
ミスのない演奏というものは、想像力が働き、創造的に練習し、音楽的に演奏できている時なのでは?ミスを恐れて、身体も手も硬直し、音楽も硬直してしまったら、つまり下手になってしまうのだったら、それは「怠慢」なのでは・・・と。
僕は「怠慢なのでは・・・」とまでは思わないけれど、「う~ん、残念だな」とは思う。一生懸命練習して、本番でその成果を出せないなんて、とても残念。
日頃の練習の積み重ねの成果を出すのが本番?つまり練習→本番という思考。むろん、練習しないと弾けないわけだから、そうなるのだと思うのだが、はたしてそうだろうか?
逆なのかも?本番→練習という思考もありなのでは?一般的なパターンとしては、「今度の発表会の曲ね。頑張ってね。少し難しい曲よ」とか「オーディションの課題曲よ」みたいに、「この曲に託すものがあるのだ」とか「最終的に本番で自分はこのような世界を表現したいのだ」という、そもそもの、その曲を弾くという動機のようなものが少しぐらい希薄でも、普段の練習をしてしまえる状況はないだろうか?どこかピアノのレッスンのカリキュラムからして、課題をこなして先生に丸をもらって教材を進めていく的なところが、特に子どもの頃は多く、「私が表現したいもの」というよりは、自分にとっての課題克服が習い性になってしまうというか・・・それが「ピアノを習う」的なことになってしまうというか・・・
練習の成果を本番で出す・・・というよりは、本番で○○したいから、だから今この練習をしている・・・みたいなものも必要なのでは?
練習成果到達度モードそのままで本番を迎えてしまうと、どこか「しなきゃ」「しなきゃ」とか「~みたいになりませんように」みたいな心理状態になってしまうし、聴き手にもそれが伝わる。聴き手は演奏者の出来栄え到達度を聴きたいわけではない。「何かしら・・・」を聴きたい。少なくとも、退屈したいわけではない。演奏者は必死、聴き手はどこか退屈・・・という構図は決して珍しいものでもないのかもしれない。
練習の成果を・・・ではなく、逆発想で「本番で~したい」だからこのような練習をする・・・という発想も必要なのかもしれない。
演奏者が最初に目指すもの、本番で表現したいという「何かしら」的なもの、非常に曖昧模糊としている。でも、だからこそ演奏という言葉では表現できないものを目指すのでは?
あるオーディション番組。このクリストファーさんという人は極度のアガリ症なのだそうだ。まぁ、見れば分かるけれど。歌うことは大好きで、できれば、そして、いつかは大勢の人の前で歌ってみたいと思っていた。自分の中に燃えたぎるまでの「何かしら」を表出し、分かち合いたいと・・・
「そんな才能あるの?」「やめときなさいよ。恥かくだけよ」「あなたには無理なんじゃない?」
ただ一人だけクリストファーさんを心理的に後押しし、励ましてくれた人がいた。クリストファーさんの祖母。祖父が亡くなってから、クリストファーさんは祖母と暮らしているみたいだ。
「あなたにはできるわよ・・・」
応募するまでに5年かかった。
「何かしら」を感じる。上手いとか、下手とか、成功したとかミスしたとか、そうではなく「何かしら」を感じる。それが聴き手に伝わっていて、波のようにエネルギーがやり取りされている。
練習の出来栄えや成果を発表する・・・ではなく、本番でやりたいことがあるから、日常の練習がある・・・
kaz

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バジル・クリッツァ―という人のブログによると、このような呪縛に捉われている人が多いのではないかと。それでいいのだろうかとバジルさんは疑問を投げかけている。
ミスのない演奏というものは、想像力が働き、創造的に練習し、音楽的に演奏できている時なのでは?ミスを恐れて、身体も手も硬直し、音楽も硬直してしまったら、つまり下手になってしまうのだったら、それは「怠慢」なのでは・・・と。
僕は「怠慢なのでは・・・」とまでは思わないけれど、「う~ん、残念だな」とは思う。一生懸命練習して、本番でその成果を出せないなんて、とても残念。
日頃の練習の積み重ねの成果を出すのが本番?つまり練習→本番という思考。むろん、練習しないと弾けないわけだから、そうなるのだと思うのだが、はたしてそうだろうか?
逆なのかも?本番→練習という思考もありなのでは?一般的なパターンとしては、「今度の発表会の曲ね。頑張ってね。少し難しい曲よ」とか「オーディションの課題曲よ」みたいに、「この曲に託すものがあるのだ」とか「最終的に本番で自分はこのような世界を表現したいのだ」という、そもそもの、その曲を弾くという動機のようなものが少しぐらい希薄でも、普段の練習をしてしまえる状況はないだろうか?どこかピアノのレッスンのカリキュラムからして、課題をこなして先生に丸をもらって教材を進めていく的なところが、特に子どもの頃は多く、「私が表現したいもの」というよりは、自分にとっての課題克服が習い性になってしまうというか・・・それが「ピアノを習う」的なことになってしまうというか・・・
練習の成果を本番で出す・・・というよりは、本番で○○したいから、だから今この練習をしている・・・みたいなものも必要なのでは?
練習成果到達度モードそのままで本番を迎えてしまうと、どこか「しなきゃ」「しなきゃ」とか「~みたいになりませんように」みたいな心理状態になってしまうし、聴き手にもそれが伝わる。聴き手は演奏者の出来栄え到達度を聴きたいわけではない。「何かしら・・・」を聴きたい。少なくとも、退屈したいわけではない。演奏者は必死、聴き手はどこか退屈・・・という構図は決して珍しいものでもないのかもしれない。
練習の成果を・・・ではなく、逆発想で「本番で~したい」だからこのような練習をする・・・という発想も必要なのかもしれない。
演奏者が最初に目指すもの、本番で表現したいという「何かしら」的なもの、非常に曖昧模糊としている。でも、だからこそ演奏という言葉では表現できないものを目指すのでは?
あるオーディション番組。このクリストファーさんという人は極度のアガリ症なのだそうだ。まぁ、見れば分かるけれど。歌うことは大好きで、できれば、そして、いつかは大勢の人の前で歌ってみたいと思っていた。自分の中に燃えたぎるまでの「何かしら」を表出し、分かち合いたいと・・・
「そんな才能あるの?」「やめときなさいよ。恥かくだけよ」「あなたには無理なんじゃない?」
ただ一人だけクリストファーさんを心理的に後押しし、励ましてくれた人がいた。クリストファーさんの祖母。祖父が亡くなってから、クリストファーさんは祖母と暮らしているみたいだ。
「あなたにはできるわよ・・・」
応募するまでに5年かかった。
「何かしら」を感じる。上手いとか、下手とか、成功したとかミスしたとか、そうではなく「何かしら」を感じる。それが聴き手に伝わっていて、波のようにエネルギーがやり取りされている。
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