ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

さくら横ちょう 

 

あまり認識することもないのだが、マリア・カラスはニューヨーク生まれのアメリカ人である。本場の演奏、本場の音ということを考えた時、本場ということに価値を置くのならば、マリア・カラスはガーシュウィンやフォスターの歌曲に本領を発揮するということになる。残念なことに(?)彼女は自国の音楽にあまり積極的ではなかったようだ。しかしながら、マリア・カラスの「草競馬」を聴くことができないことよりも、彼女のベッリーニを聴くことのできる幸福感を感じる。ギリシャ系ということを考えても、いくつかのギリシャ民謡やギリシャ歌曲を聴けないことよりも、彼女のヴェルディを聴くことのできる喜びのほうが圧倒的に大きい。

久々にアルゲリッチのソロリサイタルが東京で開かれると仮定する。チケット入手困難が予想されるが、演奏して欲しい曲として、アルゼンチンのピアノ曲が筆頭にくるだろうか?別の作曲家なのでは?「アルゲリッチはアルゼンチン人にしてはショパンもなかなか上手だ」などと評する人もいない。

本場の音なんて存在しない?日本人としては、そのように捉えたい感じではある。もし、日本人が最も本領を発揮できるピアノ曲は日本人作曲家の作品である・・・とするならば、どこか困惑してしまう。実際に、プロの演奏会でもアマチュアのサークルなどの場でも日本人作曲家のピアノ曲が、教材としてではなく純レパートリーとして演奏されることは少ないように思う。自分としても、最も心に寄り添う作品が幻想曲「さくらさくら」であるという意識はなかったりする。

デ・ラローチャのグラナドスは素晴らしい・・・この場合、彼女がスペイン人であるということとは全く無関係なのだろうか?アフリカ系アメリカ人の歌う黒人霊歌はやはりどこか違う・・・この場合、本場の音という認識は否定されていないのでは?

日本人の場合、演歌に対して「日本人独自の感覚」「日本情緒」のようなものを感じたり、求めたりする傾向があるような気がする。あとは叙情歌とか唱歌などにも。「ああ・・・日本・・・ああ・・・心の故郷・・・」みたいな?

「春の宵・・・桜の花が舞い散る・・・」このような情景に日本人特有の景色、情緒を感じる人は皆無でもないのでは?もし日本歌曲をブラジル人の歌手が歌い、その歌唱が実に見事なものであったとしても、そこに「まぁ、ブラジルの人なのに雰囲気出てるわね」というものがあるのならば、「本場の音なんて存在しない」とは言い切れないのではないか?

日本歌曲に「さくら横ちょう」という曲がある。一般的に知られているのは中田喜直の作品であるように思うが、個人的には別宮貞雄の作品も好きだ。作詞者は加藤周一で同じ歌詞。

桜の花そのものに日本情緒を感じる人も多いかもしれない。どこか儚さ、切なさのような?自分なりの捉え方としては、桜の花びらが舞い散る宵、かつて愛した人、愛された人を想う・・・これが中田喜直の「さくら横ちょう」かな?「来年の今頃、自分は存在しているだろうか?おそらくこの桜が見納めだろう」そう想いながら、ふと過去に出逢った大切だった人の姿が浮かぶ・・・これが別宮貞雄の「さくら横ちょう」・・・かな?

「さくら横ちょう」を聴く時に、「ああ、自分は日本人だ」と感じるか?やはり本場の音というものはあるのか?判断できない自分がいる。

kaz




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