ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ミューズの気まぐれ? 

 

サークルの打ち上げなどで、こう言ったら周囲はどのような反応をするだろう?「私ってユジャ・ワンより弾けると思うの」とか「私ってアルゲリッチよりも音楽的には上だと思うの」とか・・・

ここまでになると「まぁ、面白い人」とか「ユーモアのセンスがあるのね」と周囲は肯定的に捉えてくれるかもしれないが、ピアノを弾いていくうえで、ある程度の自己肯定というものは必要なのかもしれない。それは「私って上手い」と思うことではなく「上手くなれる可能性を持っている」という感覚に近いだろうか?

「どうせプロとは違うんだしぃ・・・」と反対方向に開き直ってしまうのは、ある意味で楽なのかもしれないが、残念な感じもする。聴き手として自分が「あっ、いいな・・・」と感じたような演奏をどこかで目指す、それを具現化するために練習というものをしていきたいと思うのだったら、自己肯定皆無だと難しい。逃げ道は沢山あるからね。

「体験」というものが左右しているのかもしれない。それは「ほら、できたじゃない?」「あっ、本当ですね」みたいな体験?自己肯定というものは、レッスンでの生徒と教師の関係というか、教師がどれだけ具体的アドバイスを伝えることができるかで決まってくるところもあるのでは?

別に特定の人たちだけが可能な「秘技」があるわけでもないと思う。音楽的ではないとか、ただ音符を並べているようにしか弾けないとか、そこには理由があるはずなのだ。やるべきことではなく、何か「いけないこと」をしているためにそう聴こえてしまうと考える。「いけないこと」を「いいこと」に変えていくには、やはり一人で悩んでいるよりは、具体的な方法を伝授してもらった方が早道ではあると思う。

「やっぱりゆっくり弾いてみる練習がもっと必要ね」だけの助言なのか、「ゆっくり弾いてみる時にも移動は素早くね。鍵盤の上で指が用意して待っているというか、触っているという感覚をまず体感しましょう」という助言なのか、ここで差がついてしまう。生徒としては時間がかかっても、「できた」という体感を積めば、自己を肯定していける。音楽的に弾くとか、それは曖昧な一部の才能ある人だけができるというものではなく、できるのには法則というかやり方というか、理由が存在しているのだと・・・

日々の練習というものは「命中率」だけに真剣になることではなく、もっと別に目指すべきものがあるのだとしたら?「弾けない」には理由がある。「弾ける」にも理由があるのだとしたら?曖昧なものを一部の人だけにミューズの女神が配ってくれるのではなく、そうできないのは「やり方を知らない」だけかもしれない。

バーバーの「この輝く夜にきっと」・・・別の人が歌っている。先程の人と比較すると、「こちらの人の方が音楽的」とか「こちらの人は表現力豊かよね」と聴き手としては感じる。

「先程の人はプライベートな録音よね?こちらはCD。プロなんでしょ?違うの当たり前じゃない?」この感じ方は正しいのかもしれないが、どこか「どうせ私たちとは違うのよ。私たちには無理なのよ」というニュアンスを感じてしまう。自己肯定も必要では?「違うわね。どうしてかしら?自分の演奏という観点でもう一度聴いてみようかしら?何が起こっているのかしら?」みたいに「自分に関係あること」として捉えた方がいいように思うが?

用意がある、なし・・・という気がする。発声の瞬間の前に準備が感じられる。歌手の意思、「このように声を出し、フレーズを形成していきたい」という明確な意思、そのための用意とか準備が先程の人よりも感じられる。ピアノの場合の「スローな箇所でも移動は素早く鍵盤に用意のある状態でタッチする」ということと非常にこの場合は似ている気もする。ミューズの采配ではなく、具体的なノウハウの違い・・・

kaz




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