ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

命中練習 

 

アマチュアのサークルの演奏会、あるいは発表会などの場合、リハーサルの時間が充分に取れないことが多い。「一人45分、舞台で当日練習できます」なんてことは稀では?せいぜい数分とか、時には数十秒だったりするのでは?そのような貴重なリハーサル、あるいは指ならしの時間に、意外にも多くの人が難所、パッセージの「練習」をしてしまう。このような時には、楽器の様子伺いをした方がいいのではないかと思う。たとえば、タッチの感覚と音の鳴り具合とかペダルの絡まり方とか、空間と楽器との関わりとか・・・

つまり、普段の楽器とは異なるわけだから。難所パッセージをバラバラと盛大に練習するよりは、音の少ない個所で細かな部分を確認した方がいいような?でも盛大に練習してしまう。これはピアノという楽器が正面を向かずに演奏するということも関係しているのかもしれない。どうしても鍵盤だけに集中してしまう。ライトが当たった鍵盤、日頃は接しない大きな、しかもブランドもの(?)のピアノって、どこか威圧感があったりして・・・

「ほら、本番だぞ!いよいよだぞ!」みたいな光線のようなもの、本番光線のようなものが気持ちを萎えさせる・・・

「ああ、あそこの部分、弾いとかなくちゃ!」みたいな?

本番とか会場とか、ブランドピアノ特有の雰囲気に焦ってしまう・・・ということもあるだろうが、盛大練習の理由としては、その人が普段の自宅での練習というものを、どのように捉えているかということにも関係してくるような気はする。

「その音、そのパッセージを、きちんと弾けるようにする」ということを普段練習のメインにしていたら?やはり指ならしの時間にも練習してしまうのでは?不安なパッセージを練習してしまう。むろん、弾けるようにする・・・ということは練習のメインになるのかもしれないが、射撃のように「百発百中命中させますっ!」というようなことが練習なのだろうか?本番では命中率が大切?

「このような音楽をしたい」というものが最初というか、根底にあり、そこを目指し具現化していくことが練習なのでは?具現化するための情報を得るということがレッスンを受ける目的では?

なんとなく、思わず惹かれてしまうとか、豊かな音楽性というものは、「到達した人だけができること」「才能のある人やプロだけが考えられること」みたいに思っていないだろうか?まずは弾けるようにしなきゃ・・・

順番が逆では?弾けるようになってから表現とか音楽が、雲間の光のように偶然に差し込んでくるものではなく、最初から想定し、目指していくことが練習なのでは?「まずは弾けるようになってから考える」ではなく「このような音楽をしたいから練習する」では?

そもそも「表現」というものと「技術」というものを分離して考えすぎていないだろうか?技術が整ってから表現を・・・ではなく、表現を伴って弾くための技術・・・なのでは?

「あら・・・素敵ね!」ここにはそう聴き手に感じさせる技術がある。表現と技術が一体化されていると考えるのならば、「バリバリと弾いて技術はあるけれど、それだけで表現に乏しい」ではなく「バリバリとしか聴こえないのは表現化までの技術が足りていないから」と発想を変えることができる。

練習は、命中を目指すものではないとしたら?

サミュエル・バーバーに実に素敵な歌曲がある。「この輝く夜にきっと」という曲。有名な曲だと思うのだが、残念なことに日本ではあまり歌われない気もする。歌詞が英語だからかなぁ?ここで歌っている人は学生なのかな?実に素直でキレイな声をしている。声そのものは曲の叙情性に合っているような気がする。でもどこか学生っぽく感じてしまうところもある。あっからかんと歌っているというか、もう少し細かな、繊細なニュアンスが欲しいと聴き手としては感じてしまう。つまり聴き手としては「もう少し表現力が欲しい」と。

これって表現力だけの問題なのだろうか?技術ということは無関係なのだろうか?ピアノの場合だと、タッチと移動が同時すぎる演奏と似ているような?タッチの直前に準備が必要だ。移動をすばやく行い、鍵盤上に到達し、自分の意思のある音を出すだめには、鍵盤上で準備をしなければならない。これって技術なのでは?

kaz




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