ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

「あの日のように抱きしめて」 

 

発表会本番の前日とか、舞台に出て演奏する直前とか、まずは何が頭をよぎるだろう?「ミスなく忘れないで弾けますように!」かもしれない。でもそれは「次の発表会でこの曲を弾きたい」と思った時の動機、目的だろうか?ミスなく弾くためにその曲を選曲したの?ミスなく弾くために人前で弾こうと思ったの?そもそもミスなく弾くためにピアノを弾いているの?

日常生活の中で何かしらの感情の動きがあったから、その曲を選んだのでは?その曲が自分の感情を動きを代弁してくれるみたいな?その時の気持ちはどこへ?いつのまにかミスなく弾くことに重点が移行している?

本番直前には、なぜその曲を弾くのか、そもそもなぜ自分はピアノなんて弾いているのか・・・と自分に問いかけてみてもいいのかもしれない。むろん、一小節毎にアクシデントがある演奏だと、聴き手は動揺してしまう。「大丈夫かしら?」と。でも聴き手はミスを数えることをしたいわけでもない。演奏者その人なりの「何か」とか「そもそも・・・」の部分、それを感じたい。ミス連発よりは、ミスの少ない演奏の方が「何か」は伝わりやすい。でもそれは手段であって目的ではない。

なぜ練習するの?なぜその曲を弾いているの?ミスなく弾けるようになるため?

「あの日のように抱きしめて」という映画を観た。この映画ではクルト・ヴァイルの「スピーク・ロウ」という歌が効果的に使用されている。この曲でなければならなかったし、クルト・ヴァイルでなければならなかった。

クルト・ヴァイルはユダヤ人であったため、ナチスの迫害を受けた。ドイツには住めなくなったため、アメリカに逃れた人でもある。クルト・ヴァイルがオグデン・ナッシュの「スピーク・ロウ」という詞に曲をつけたのが1943年、この映画の舞台は1945年のベルリン・・・

逃れることもできずに命を落としたユダヤ人の方が圧倒的に多かった。そのような意味ではクルト・ヴァイルは恵まれていたのだろうが、自分のそれまでのものを一切断ち切るということを彼は経験したのだ。祖国を捨てるということはそういうことだ。映画のテーマとは関係ないことなのかもしれないが、なんとなく僕はクルト・ヴァイルのことを思い、胸が熱くなる。

「スピーク・ロウ」を弾くわけではない。クルト・ヴァイルの曲を弾くわけでもない。でもこの映画を観て、クルト・ヴァイルに思いを馳せたという気持ちは、自分がこれから何か曲を弾く時にも全く無関係ではないと思う。感情が動く、それを今度は音にしてみたい・・・

「スピーク・ロウ」  オグデン・ナッシュ

声を潜めて
私たちの夏はすぐに萎れてしまうのだから
愛を語るときは囁くように
二人は難破船のように押し流され
すぐに離れ離れになるのだから

声を潜めて
恋は火花 闇へと消えていく
どこに逃げても明日が追ってくる
今を乗っ取り居座ってしまう

私たちはいつも手遅れ
幕が下がりすべてが終わる
私は待っています ただ待っています
声を潜めて
愛を囁いて 今すぐに・・・


「どこに逃げても明日が追ってくる」それでも一筋の光を信じていく・・・みたいな感情の動き?

なぜその曲を弾くのだろう?好きだから?なぜ好きなんだろう?本番では何をしたらいいのだろう?

胸が熱くなったら音にしてみたくありませんか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: kinema

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top