ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

音源参考方法 

 

新しい曲を貰った場合、大抵の人は自分が弾く曲の音源を聴いてみるのではないだろうか?まぁ、曲にもよるのかもしれないが、いきなり譜読み=練習=音にしていく・・・ということだけをして人前で演奏してしまうということは少ないのでは?音源を聴くということに関しては、消極的というか、否定的な人(先生)もいるのかもしれない。むろん、「この部分はアルゲリッチの弾き方を貰っちゃおう、あっ、ここはブレンデルの表現で・・・」みたいなことになると困る。無意識の影響?考えてみれば、真似できれば大したものではあるとも思うが。

音源を参考にする場合、ほとんどの人が「自分の弾く曲をプロが演奏している音源」を聴くということになるのでは?まぁ、普通はそうなのだろう。CDだけではなく、パソコンでも演奏が気軽に聴ける時代でもあるしね。この場合、音源から「どうしてこのような効果が出せるのだろう?」とか「このような音の出し方ってどうやるのだろう?自分の理想の弾き方だわ」みたいな聴き方ができればいいが、「この曲はこのように弾きこなすのね?」みたいな、ただの純然たる(?)「弾きこなし参考例」になってしまう危険性はある。

つまり、「自分は何をしたいのか?」という自分の演奏というものの基本動機みたいなものを探るというよりも、表面上の弾き方をついつい聴いてしまう。

自分の中に基本動機のようなものや、何かしらのイメージがなくても、音符は音になっていくし、練習すれば、それなりに流麗な「よく練習してあるわ」的な演奏はできる。多くの人が悩むのは、そのようなことができないということよりも、むしろ「私はどのような演奏をしたいのかしら?」という具体的音イメージ、サウンドイメージが持ちにくいということなのではないだろうか?言葉を変えると「なんでただ弾いているだけみたいになってしまうのかしら?」みたいな?

レッスンで先生が解決してくれることなのだろうか?弾くのはあなたなのに?

むろん、具体的な指導で、レッスン内で変わっていく、理解できていくということもあろうが、演奏する人に何も「表現したいこと、そのサウンド」としてのイメージが存在していなければ難しいところもあるのでは?教師があるフレーズを模範的に弾いて生徒が開眼するということはあると思う。教師が弾ける人である必要性はそこにあるのかもしれない。でも、表現というものはメカニックを使用し、自分の中にあるものをテクニックを介して表に何らかの形として出す・・・というものであるのならば、具体的指導によって導き出されるところの「自分の中にあるもの」そのものが存在していなければならないのでは?

「こうすれば弾けるじゃない?」「そうですね!」「ではやってみて表現してみればいいじゃない?」「はっ?何を?」みたいな?

実は「弾く」ということよりも「なぜ弾くのか?」という部分が演奏において難しいものなのでは?「何を表現したいの?」「さあ?」

音源を聴く時に、ピアノ以外の楽器や声楽を参考にしてみるといいのかもしれない。ピアノを聴く場合よりも、ある程度の距離というか、実際には自分はその楽器を弾くわけではないので、ある意味「弾きノウハウ」のようなものよりも、「音楽」を聴くことができるのでは?これは第一の利点だと思う。

第二の利点は、自分の持っている、その楽器や、声楽というものへの、ある意味「狭いイメージ」を、卓越した演奏、偉大な演奏というものは覆してくれる可能性がある。聴き手が求めていなければ何も聴こえてこないのかもしれないが・・・

「声楽」「テノール」というものへのイメージ、もしそこに「声を高らかに張りあげる」のような狭いイメージしか持っていないのであったら、ある種のテノール歌手はそのイメージを変えてくれる可能性がある。そして「もしかしてピアノも同じでは?私は狭いサウンドイメージしか持っていなかった?テノールは張りあげる・・・みたいなイメージをピアノにも持っていたかも?」

難しいのは、実際に自分はその楽器を弾くわけでも、歌を歌うわけでもないので、何らかの感動やイメージ変換があった場合、それを「ピアノ」というものに結びつける必要があることだ。「ああ・・・この感じ、素敵だわ」と感じたのなら「この感じ」を自分の演奏に結びつけていく。

一つの例として、レオ・スレザークの歌唱。「なんて柔らかな表現なのだろう!」と思う。古い古い録音だ。1928年。個人的には、曲の後半になるにつれてのスレザークの押さえた表現、メカニックとテクニックの融合みたいなものに魅了されてしまう。後半、「Mein Lieb ist verschwiegen」(僕の愛は決して語らない)という言葉が二回繰り返される。その瞬間の陶酔感と言ったら・・・僕としては、もう昇天してしまいそうだ。

この陶酔感を、いきなりピアノの前に座り、「どうやるのかしら?」と頑張ってしまうよりも、いや、それでも「何を表現したいの?」「さあ?」よりはいいけれど、まずは、スレザークの陶酔感のような、遠くに消えていってしまうような感じのピアノ演奏を探してみればいいのだと思う。実際に自分がピアノの前で「出したいもの」として頭の中にあるのは、そりゃあピアノのサウンドになるわけだから、スレザークのようなピアニスト、ピアノ演奏を見つければいいのだ。ピアノ以外の演奏と、ピアノ演奏を合わせて「一つの自分の中に存在する何かしらの表現したいサウンド」として持っていればいい。

う~ん、持ってしまうと、さらに遠い苦難の道のりか?そうではないような気がする。「何をしていいのか分からない」とか「何を表現するのか、そんなもの何もない」という自分と共にピアノを弾いていく方が辛いような気がする。

次回は「スレザークのようなピアニスト」について書いてみたいと思う。

kaz




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