ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

東洋音楽学校 

 

米山正夫は東洋音楽学校のピアノ科卒業。ピアノの腕前はどうだったのだろう?それは想像するしかないのだが、卒業生代表演奏のようなものに選出されるぐらいの腕前ではあったようだ。昭和9年のその種の演奏会で、彼はファリャとムソルグスキーを弾いている。時代を考えると、かなり大胆な選曲ではある。やはりベートーヴェンの「奏鳴曲」のようなドイツ傾倒の曲がピアノ科の場合は主流だったと思うので。

昭和10年には流行歌の作曲家としてデビューしているので、在学中の思惑はご本人ではないので分からないが、どうもクラシックではダメだから歌謡界に転身した・・・というわけでもないような気はする。米山正夫はデビュー当時、「上品で音楽的な作品を提供したい」という抱負を語っている。

同じように東洋音楽学校のピアノ科出身で歌謡界に転身した作曲家に船村徹がいる。在学中に船村徹は同じ学校の高野公男と知り合っている。高野は作詞家としてデビューするが、全く売れなかった。船村と組み、そして春日八郎に提供した「別れの一本杉」が大ヒットし、ようやく名前が知られるようになったが、高野は結核のため26歳で亡くなってしまう。春日八郎もまた、東洋音楽学校の出身であった。作曲家では童謡の世界で活躍した海沼實もこの学校の出身。戦後、子どもたちに希望を・・・と童謡を提供した。「みかんの花咲く丘」や「里の秋」など。

歌謡界というか、芸能界に転身した人には、東洋音楽学校出身の人が何故か多いような気がする。偶然なのだろうか、それとも当時は自由な校風があった?

当時の歌謡曲の歌手は、現在と異なり、どこかクラシック風の発声で歌う歌手が多かったような気がする。今よりもクラシックの専門学校=歌謡曲の歌手というものが、それほど違和感なく受け入れられる時代であったのかもしれない。

子どもの頃、両親が淡谷のり子に対して「この人はクラシックで食べていけないから歌謡曲に転身した」のようなことを言っていた記憶がある。淡谷のり子も東洋音楽学校出身の歌手だ。なんとなく、クラシックでは食べていけないとか、クラシックでは通用しなかったから・・・という言葉の奥底には「クラシックが音楽を支配している」みたいな偏見を感じて、個人的には好きではない。厳しさ、それは生きていくにも、単純に食べていくのにも、クラシックの世界よりも、むしろ歌謡曲の世界のほうが厳しかったのではないか?そんな風に思ったりもする。

黒柳徹子が東洋音楽学校出身であることは、有名であると思うのだが、女優の津島恵子とか俳優の和田浩治(知ってます?)もこの学校の出身。ここまでくると(?)なんとなく畑違いの学校から・・・という気もしてくるが、歌謡曲の歌手には本当に東洋音楽学校出身の人は多い印象だ。春日八郎もそうだし、織井茂子(君の名は)、霧島昇(愛染かつら)菅原都々子(月がとっても青いから)、奈良光枝(青い山脈)・・・

米山正夫はこんな曲も残している。ある企業が提供するテレビ番組(天気予報だが)の曲。昭和生まれの人なら一度は耳にしたことはあるのでは?天気予報という番組のための曲だから、感動に打ち震えるとか、熱い涙が湧き出る・・・という感じの曲ではないが、デビュー当時、米山正夫が決意した「上品で音楽的な作品を提供する」というもの、これは感じとれるような気はするが、どうだろう?

kaz




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