伝承
「お前の父さんは役立たずなんだってな」Aさんはよくそう言われた。今でいうイジメに近かったという。時は太平洋戦争中。Aさんの父親は事故により足を負傷していて、徴収されなかったのだ。国のために戦う・・・これは当時としては当然の感覚だったのかもしれない。
「非国民!」とも言われた。足の不自由だったAさんの父親は、趣味でフルートを吹いた。当時としては贅沢品だった蓄音機も所有していた。仕事が終わるとフルートを練習し、練習が終わると蓄音機でフルートの音楽を聴いた。
Aさんの家族、特に母親はそんな父親をどこか疎ましく感じていたらしい。「こんなご時世なんだから少しは遠慮してくれればいいのに」当然Aさんもそう思っていた。「父さんがフルートなんて吹かなければ僕はみんなからいじめられないのに」
「西洋かぶれ」「非国民」「役立たず」・・・自宅に石を投げ入れられることもあった。「やめろ、非国民」という張り紙が玄関に貼ってあることもあった。
でもAさんは、どこか厳粛な顔つきでフルートを吹き、目を閉じて蓄音機から流れるフルートの音色を聴いている父親に、「父さんがフルートをなんか吹かなければ僕はいじめられないんだ」とは言えなかった。言えない雰囲気を感じた。
鬼畜米英・・・贅沢はやめましょう・・・そんな時代であるからこそ聴いている、吹いている、そんな強いような頑なな雰囲気を父親は発していたという。「同じ人間どうしなのになんで殺し合わなければいけないんだ?」そうも言った。Aさんはどう答えていいのか分からなかった。
父親がいつも聴くフルート奏者は決まっていた。Aさんもそのフルート奏者の顔は覚えてしまった。「なんていう人なの?」
「マルセル・モイーズ先生・・・」父親が「先生」と言ったのが印象に残った。「ああ、モイーズ先生のようにこの曲が吹けたらなぁ・・・」そう言いながら父親はその音楽を聴いていた。目に涙を湛えながら・・・
「なんていう曲なの?」「ハンガリー田園幻想曲という曲だよ。ドップラーという人が作曲したんだ。いい曲だろ?」「うん・・・そうだね・・・いい曲だね・・・」でもAさんには遠い世界の曲のようにも思えた。
Aさん一家は深川に住んでいた。空襲で深川地区は全焼してしまったらしい。「家族がみんな無事だったんだ。感謝しなければいけないな」そう言いながら父親は丸焼けになった家の片づけを始めた。「みんな焼けてしまったな・・・」そう言いながらAさんの父親は肩を落とした。
戦後、世の中が復興し始めても父親はフルートを吹こうとはしなかった。音楽も聴こうとはしなかった。Aさん自身も就職し、自分の家族を持ち、いつのまにかそんなことも忘れていった。
Aさん自身が父親が亡くなった年齢を超えた頃、ふと記憶にある顔が飛び込んできた。「この人???」
父親の声がAさんの中で呼びかけてくるようだった。「マルセル・モイーズ先生・・・」
「ああ、この人だったな・・・」それはかつてAさん、そして父親が聴いていたSP盤ではなくLPレコードだったが、そのレコードにはドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」も収録されていた。「ああ、こんなメロディーだった。そう、こんな曲だった・・・」
Aさんの子どもも独立し、そして「おじいちゃん・・・」などと孫たちから呼ばれるようになって、突然Aさんはフルートを習い始めた。「あなた、クラシックなんてあまり聴いたことなかったじゃない?なんでまた今さらフルートなんて?」と妻も驚いた。誰よりもAさんが自分の行動、欲求に驚いた。
「ハンガリー田園幻想曲を自分でどうしても吹きたくなったんです。まぁ、今からでは死ぬまでに吹けるようにはならんでしょう。でもいいんです。父の夢でもあったし、それが今では私の夢になっている。それでいいじゃないですか?」
「おじいちゃん・・・これ何ていう曲なの?」SP盤がLPになり、そしてCDに変わっても、ドップラーを演奏している人は変わっていなかった。Aさんは質問してきた孫に言った。
「ドップラーのハンガリー田園幻想曲というんだ。演奏しているのはマルセル・モイーズ先生だよ・・・」
kaz

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「非国民!」とも言われた。足の不自由だったAさんの父親は、趣味でフルートを吹いた。当時としては贅沢品だった蓄音機も所有していた。仕事が終わるとフルートを練習し、練習が終わると蓄音機でフルートの音楽を聴いた。
Aさんの家族、特に母親はそんな父親をどこか疎ましく感じていたらしい。「こんなご時世なんだから少しは遠慮してくれればいいのに」当然Aさんもそう思っていた。「父さんがフルートなんて吹かなければ僕はみんなからいじめられないのに」
「西洋かぶれ」「非国民」「役立たず」・・・自宅に石を投げ入れられることもあった。「やめろ、非国民」という張り紙が玄関に貼ってあることもあった。
でもAさんは、どこか厳粛な顔つきでフルートを吹き、目を閉じて蓄音機から流れるフルートの音色を聴いている父親に、「父さんがフルートをなんか吹かなければ僕はいじめられないんだ」とは言えなかった。言えない雰囲気を感じた。
鬼畜米英・・・贅沢はやめましょう・・・そんな時代であるからこそ聴いている、吹いている、そんな強いような頑なな雰囲気を父親は発していたという。「同じ人間どうしなのになんで殺し合わなければいけないんだ?」そうも言った。Aさんはどう答えていいのか分からなかった。
父親がいつも聴くフルート奏者は決まっていた。Aさんもそのフルート奏者の顔は覚えてしまった。「なんていう人なの?」
「マルセル・モイーズ先生・・・」父親が「先生」と言ったのが印象に残った。「ああ、モイーズ先生のようにこの曲が吹けたらなぁ・・・」そう言いながら父親はその音楽を聴いていた。目に涙を湛えながら・・・
「なんていう曲なの?」「ハンガリー田園幻想曲という曲だよ。ドップラーという人が作曲したんだ。いい曲だろ?」「うん・・・そうだね・・・いい曲だね・・・」でもAさんには遠い世界の曲のようにも思えた。
Aさん一家は深川に住んでいた。空襲で深川地区は全焼してしまったらしい。「家族がみんな無事だったんだ。感謝しなければいけないな」そう言いながら父親は丸焼けになった家の片づけを始めた。「みんな焼けてしまったな・・・」そう言いながらAさんの父親は肩を落とした。
戦後、世の中が復興し始めても父親はフルートを吹こうとはしなかった。音楽も聴こうとはしなかった。Aさん自身も就職し、自分の家族を持ち、いつのまにかそんなことも忘れていった。
Aさん自身が父親が亡くなった年齢を超えた頃、ふと記憶にある顔が飛び込んできた。「この人???」
父親の声がAさんの中で呼びかけてくるようだった。「マルセル・モイーズ先生・・・」
「ああ、この人だったな・・・」それはかつてAさん、そして父親が聴いていたSP盤ではなくLPレコードだったが、そのレコードにはドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」も収録されていた。「ああ、こんなメロディーだった。そう、こんな曲だった・・・」
Aさんの子どもも独立し、そして「おじいちゃん・・・」などと孫たちから呼ばれるようになって、突然Aさんはフルートを習い始めた。「あなた、クラシックなんてあまり聴いたことなかったじゃない?なんでまた今さらフルートなんて?」と妻も驚いた。誰よりもAさんが自分の行動、欲求に驚いた。
「ハンガリー田園幻想曲を自分でどうしても吹きたくなったんです。まぁ、今からでは死ぬまでに吹けるようにはならんでしょう。でもいいんです。父の夢でもあったし、それが今では私の夢になっている。それでいいじゃないですか?」
「おじいちゃん・・・これ何ていう曲なの?」SP盤がLPになり、そしてCDに変わっても、ドップラーを演奏している人は変わっていなかった。Aさんは質問してきた孫に言った。
「ドップラーのハンガリー田園幻想曲というんだ。演奏しているのはマルセル・モイーズ先生だよ・・・」
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2016/04/18 Mon. 09:46 [edit]
category: 音楽自立人、音楽自由人
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