ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

「エリーゼのために」は易しい? 

 

何日か前に具体的解決法レッスン・・・みたいな文章を書いて、いくつか反応があった。難曲も一応弾いているアマチュアの方、あとはピアノの先生。「一応音は弾けるんだけど、その先何をしていいのか分からない」「ダメ出しをするのがレッスンだと思っていたし、自分自身も生徒に具体的解決方として何を言えばいいのか分からない。自分もそのような指導を受けてこなかった」

メールの他に、サークルのピアノ仲間の悩み(愚痴?)なども総合的に含め、ちょっと書いてみたくなった。

印刷された音を鍵盤に移していく、むろん、誰でもこれだけではいけないと思っている。指導者ブログで多いと感じるのが、「楽譜を読む」という重要性を解いたもの。和音の変化とか、音型の行方とか、「音」だけではなく構成というか、まとまりを把握するということ。まずはここは必要だろうと思う。でももう一つのステップが必要なのではないか?

「テクニックだけではなく音楽的表現が大切」このような言葉、なんとなくサラリと読んでしまう。難所で身体も手も固くなってしまいミス連発、その部分が弾けていない・・・このような場合、「テクニックが足りない」などとも言う。なんとなく言ってしまう。「テクニックはあるけど心に響いてこない」つまりバリバリと弾いている・・・これもよく使われる言葉、というか表現だ。

この場合、メカニックという言葉が厳密には正しいのでは?テクニックはメカニックを効率的に使用し、音楽表現に結びつけるものだから。

この概念が、指導者も生徒も少し足りていないのかもしれない。バリバリとした演奏は、メカだけが強調されてしまう演奏、つまりテクニックが不足し表現として伝わっていないのでバリバリ・・・とした印象になる。つまりテクニックが足りない・・・

このテクニックという概念があるならば、日頃のレッスンでは具体的、問題解決志向のレッスンに自然となるのではないか?多くのアマチュアが「私には音楽的感性、才能が足りない。人の演奏を聴いて感じることはできるけれど、自分が弾くとただ弾いているという演奏しかできない。音楽的不感症?才能の問題?自分には音楽的才能がないのね・・・そうよ・・・ないのよ」と、なんとなく思い、悩んでいる感じだ。音楽的表現ってそのような曖昧なものなのだろうか?ある人はあって、ない人にはない?発想転換!「教えてもらっていないだけ?」

メールを頂いたピアノ教師の方の文を引用させて頂く。(了解済みです)

モーツァルトの小さなハ長調のソナタ、ドーミソシードレド・・・シの音がバシンと強くなってしまう。拍感覚が分割されてしまうので、シの音を「丁寧に弾いてね」とレッスンで注意した。左手のドソミソ・・・も大きすぎたので、「伴奏だから弱く弾くのよ」と言った。その後に出てくる16分音符のパッセージ、転んでしまうので、リズム練習をするように課題を出した。さらにそのパッセージでは音楽的表現のために上向型はクレシェンド、下降型はデクレシェンドでという指示も出した。「がっつりもれなく教えたわ」その先生はそのように思っていた。

でもこれってダメ出しだけ?具体的な弾き方、テクニックは何も教えていない?そもそも自分自身もそのようなことを音大の先生から教えられていない?

バシンと強くなってしまうシの音、親指で弾くということに関連があるのかも?丁寧にというダメ出しだけではなく、実際に丁寧に聴こえる具体的方法?伴奏がうるさい?音の数は多いのよね?弾き方があるのでは?それを伝えるのがレッスンでは?細かなパッセージにも具体的な弾き方があるのでは?指が動くようになる、音は弾けるようになる、でもこれはメカニック?では表現は?テクニック・・・を教えていない???

なんとなく、そのようなことを考えてしまったのだそうだ。

日本人の演奏はメカはあるけど、訴えるものが少ないとか、どこかその演奏者の内面からくる感情のようなものよりも、曲の構成という外壁部分を攻めているような印象があると言われていた。そしてその原因は、感情を表に出さない謙譲の美徳という国民性だったり、西洋音楽の歴史の浅さ・・・みたいなこととされてきた。実はそうではなく、メカニックとテクニックという概念が曖昧で、レッスンではダメ出し中心で、具体的にテクニックを介して表現というものに結びつけるというものに欠けていた・・・という面もあるのでは?簡単に言うと、教える方も教わる方も、表現力というものを「才能」「感性」みたいなものに丸投げしてしまっていた?

レッスン時間内に「ここをこうすれば楽に弾けるじゃない?」「その部分をこうすれば、このように動かせば、このような効果が楽に出るじゃない?」・・・そして生徒は思う。「あっ・・・本当だ!」と。これが足りないんじゃないかなぁ?

どこかこのような構図がないだろうか?上級になるにつれ、つまり難しい曲が弾けるようになると、自然と「表現力のある人」と「凡庸な、ただ弾いているとしか弾けない人」に分かれてしまい、その部分は生まれ持った才能のようなもので、もうどうしようもない・・・みたいな?むろん、聴いている人が一瞬で聴き入ってしまう、その演奏の虜になってしまう・・・みたいな演奏は才能のようなものも絡んでくるかもしれないが、音楽的に弾けて、「あら、素敵じゃない?」みたいな演奏はテクニックを教えてもらえば、誰にでも到達できることなんじゃないか?「どうしてもただ弾いているだけになってしまう」才能ではないかも?弾き方を具体的に教えてもらっていないだけかも?自分でもそのことを諦めて追っていないだけなのかも?

テクニック概念はショパンやリストが弾けるようになってから必要なことではなく、ブルグミュラーとかソナチネ程度に達するまでには、あるのとないのとでは大きく変わってしまうようにも思う。ブルグミュラー以前の、もっとシンプルな曲でも曲という形態があるならば、その概念は必要かもしれない。

音楽的表現、曖昧なる才能ではなく、そこには方法がある・・・

「エリーゼのために」を弾いてみる。音は弾けるという人は多いだろう。でも人前で弾く勇気のある人は少ないかもしれない。「ボロが出る」と言われるような曲だ。誰でも知っているしね。メカニック的には難渋さの少ない曲。でもボロが出る・・・という場合、それは音楽的感性がその人に不足しているのではなく、メカを表現に結びつけるツール、つまりテクニックが不足しているのかもしれない。

悩んでいる人は多いように感じる。テクニックを具体的に指導できて、その場で「あ、本当だ」みたいなレッスンのあるピアノ教室はこれから繁栄していくのではないだろうか?

kaz




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