ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

本番心境 

 

アルフィー・ボーという歌手は自然体という気がする。曲があり、聴き手がいて、演奏者はその中間地点にいる。そのあたりのバランスがいい。もし演奏者が自分の出来栄えばかり気にして、本番で練習の時と同じようにとか、事故が起こりませんようにみたいな、演奏者自身のことだけに一生懸命になっていたら、中間地点という位置づけが感じられない。つまり、曲からの、そして演奏者からの対話が感じられない。そうすると、聴き手は何を感じればいいのか戸惑う。出来栄えだったら、「上手に弾けたじゃない?」とか「ミスなく弾けたじゃない?」とは思えるが、それだけでは感心はするかもしれないが、聴き手の心は動かない。

ピアノって幼い頃からガンガンに(?)訓練されるから、仕上げるとか、弾きこなすというようなこと、つまり演奏の最終目的ではない手段のようなことに懸命になりがちなのかもしれない。むろん、弾けなければ人に何も伝わらないだろうが、弾ければ伝わるというものでもないような?

歌手って、人生のどこかで賭けた瞬間のあった人が多いような気がする。「物心ついたら、かなり弾けていた」というのではなく、自分の意思で「歌手になろう」「俺、やってみる・・・」という瞬間があった・・・

つまり、自然体なのだ。受けた感動を、今度は自分という中間点を介して、他人に伝わっていく・・・みたいな音楽、演奏としての自然な流れが存在する。

「さあ、明日は本番!」・・・「ダメでした」「弾けなかった・・・まだまだ練習が足りないのね」「自分なりにこれ以上できないというところまでやったのに失敗。才能がないのは事実。ピアノに向かないのかなぁ・・・」

気持ちは痛いほど分かるけれど、でもこれって全部「自分のこと」だよね?曲は?聴き手は?本番では、弾き手だけが存在していたわけでもないだろうに・・・

なんだか自然ではない感じ・・・

プロのピアニストもブログを持っている人は多いけれど、アマチュアのそれと決定的に異なることがある。プロは自分の出来栄えについての感想を、言葉を変えれば、ネガティブなことは書かない。「いやぁ・・・あの時の演奏は大失敗でしてね、心を入れ替えなければなどと思いました」などとは書かない。本心だとしても。お金を払って聴いてくれた人に失礼になるからではないだろうか?3000円なりを払ってわざわざ会場に足を運んで、演奏者が「大失敗しちゃったぁ・・・」では聴き手はいい気持ちはしない。でもアマチュアは書きたい放題。ネガティブな言葉、反省の言葉が並ぶことになる。やはり本番での出来栄えというものが第一の自分の関心だからだと思う。普通は練習どおりには弾けないものだ。

フィギュアスケートの競技会、各グループの演技前に6分間の練習時間がある。その時には高難度のジャンプをバンバン決めていた選手が、本番では転倒してしまうことは(よく)ある。思うのだ。「さっきは軽々と跳んでいたではないか?」と。でもそれが自然なのだ。緊張すれば、身体の各部の動きも異なるだろうし・・・

世界選手権の最終グループで滑るような選手だってそうなのだ。ピアノ演奏も同じだと考えてしまってはいけないのだろうか?「本番では緊張するので、練習の時と全く同じようには弾けない。なにかしらが起こる。でも人間なんだから、それが自然なのだ」と開き直ってしまう。いけないのだろうか?

そもそも本番の最中の関心事として「練習と同じように」でいいものだろうか?多くの人がこの「練習の時のように願望」に惑わされていないだろうか?練習量だけが本番での自分を助ける?むろん、練習不足よりはいいだろうが、練習って本番でミスなく弾くためにするものなのだろうか?一種の心の保険?本番でうまく弾ければいいだろうが、どんなに練習量を増やして保険料を払っても、それでも失敗してしまうこともある。この時、練習を心の支え的な保険みたいに思っていたら、どのように立ち直るのだろう?

「同じように」・・・ではなく「同じようにいかなかったとき、どのように対処するか」の方がより重要なのでは?

この間のフィギュアスケートの世界選手権で感じたのだが、トップ選手でも、たとえば予定だったコンビネーションジャンプが単発になってしまうようなことがある。咄嗟の判断で、本来は単発のジャンプにもうひとつ3回転をつなげて、コンビネーションにする・・・という臨機応変さ・・・この感覚の方が、絶対に練習の時と同じように・・・と思っているのよりも現実的であるように思う。あまりに練習=心の保険と思っていると、何かあった時に頭が真っ白になってしまい、崩壊の道まっしぐら・・・になってしまうこともあるのでは?それよりも、一瞬「あ???」と思っても「いいも~ん、次のジャンプをコンビネーションにするから」ぐらいの心の余裕、幅があった方がいいのでは?

人間ならば、上達したいと思う。過去の失敗を繰り返したくないと思う。克服したいんだよね。でも本番での演奏の目的はそこ?

さて、アルフィー・ボーの歌唱。彼だって、練習では、あるいは本番でも声がひっくり返ってしまったり、ブレスが足りなくなってしまったりとか、本人なりの痛恨のミス・・・みたいなものはあっただろうと思う。彼も人間だから「繰り返したくない」とは思うだろう。でも彼の歌唱から「ああ、用心しながらミスなく歌おうとしている」という要素を聴き手は感じるだろうか?彼は「失敗しませんように・・・」「家では歌えた。本番でもお願いします」と感じながら歌っているのだろうか?

kaz




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