ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

暗譜 

 

サムイル・フェインベルグというピアニストがいた。ゴリデンヴェイゼル門下のピアニストで、この人はモスクワ音楽院での卒業演奏(つまりリサイタル)でバッハの平均律全曲を暗譜で演奏したのだそうだ。1巻と2巻全部だったのだろうか?それともどちらか?どちらにしても「凄い・・・」としか思えない。100年以上昔の話ではありますが・・・

現在、平均律をリサイタルで全曲演奏する場合、楽譜を見るのが普通のような気はする。譜めくり用の椅子が舞台に用意されていても、別に「えっ?楽譜見るんだ?」とは思わない。逆にピアニストが一人で楽譜も持たないで舞台に登場すれば、「えっ?暗譜なんだ?」と思うような気がする。

どんなに大曲、難曲でもバロック、そして現代の曲以外の曲、たとえばリストのソナタのような曲であっても、ピアニストが楽譜を見て演奏すると、どこか「えっ?見るんだ?」と反射的に感じてしまう所はある。

暗譜をすべきかどうか?リヒテルというピアニストは後年は楽譜を置いて演奏していたことは有名だ。「記憶に多大な労力を割くのなら、その分楽譜を見て演奏のことを考えろ」みたいなことを言っていたような気がする。その通りなのだろう。聴衆は演奏者の暗譜達成度そのものに心動くわけでもないのだし、楽譜を置いたとしても、基本的にはピアニストは暗譜そのものはしているような気はする。つまり、音楽、演奏そのものの質が良ければ、本番での暗譜は必要ないのかもしれない。

最近は管楽器奏者などは、ソナタや協奏曲でさえ楽譜を見て演奏する。ピアノよりも、楽譜を見るという習慣に対して寛容な気はする。昔は管楽器奏者も今よりは暗譜での演奏が多かった気もするが?ソロと伴奏のショーピースという感覚ではなく、現代ではアンサンブルという考えになってきているのだろうか?

昔、義理で(?)フルートのコンサートを聴いたことがある。演奏そのものは普通だったような気がするが、すべての曲を楽譜を見て吹いていた。それはいいのだが、アンコールでの、たとえば「アルルの女のメヌエット」などのような曲までも暗譜でなかったのには、ちょっと違和感を感じたりした。ピアノリサイタル、アンコールでの小犬のワルツを譜めくりを伴い視奏するピアニスト・・・このような場合、やはりちょっと違和感を感じたりする。

ピアノの発表会での講師演奏、たとえばショパンのバラードなどを演奏する場合、やはり暗譜でないと客席は「あっ、楽譜見るんだ?」と思ってしまうところはあるような気がする。逆に「あっ、先生暗譜するんだ・・・」と驚かれるのもどうかと思うが・・・

特にアマチュアの場合、もしかして僕だけかもしれないが、本番での恐怖心から楽譜を見るということと、最初からゴール地点での演奏を視奏とすることで、取り組みそのものに違いがあって当然なのに、どこか混同してしまう危険性はある。サークルの練習会などで「今回は楽譜ありで演奏しよう」と取り組むのと、暗譜を想定して取り組むのでは、練習に対しての気合のようなものが違ってくる。完成度も異なってくるのでは?バッチリ暗譜はできているけれど、本番での記憶喪失が怖いので楽譜を置く場合と、最初から暗譜まで到達しないという気構えの演奏とを一緒に考えていけないような気はする。やはり暗譜というものは大変なのだ。そこから逃げる理由として「だってリヒテルだって・・・」というのは、ちょっと違うのではないかと・・・

ちょっとどの本が失念してしまったのだが、あるピアニストが書いた本でリヒテルが後年視奏したのは、記憶の問題よりも絶対音感能力の問題だったのではという説があった。個人的には僕もこの説に同意するところはある。絶対音感そのものが喪失し完全に相対音感になってしまうということはない。絶対音感の感覚は残ってはいるのだが、一部おかしくなってしまう。全体が低く聴こえてきてしまうみたいな?

実際の音よりも低く聴こえてきてしまう場合、ピアノの場合、鍵盤位置と指の関係が崩れてしまう。このような音だろうと頭の中で鳴る音と実際に聴こえてくる音に差が出てくる。ドミソと弾いているのに、自分にはシ♭レファと聴こえてくる。「僕・・・移調している?」みたいな混乱?低く聴こえてきてしまうという現象は加齢に伴い結構みられることのようだ。完全なる相対音感であれば、このような時にも混乱はないのかもしれないが、絶対音感の感覚そのものは残っているので、そこで混乱してしまう。

デ・ラローチャも後年は音が低く聴こえてきてしまったそうだ。

リヒテルとデ・ラローチャの違い、デ・ラローチャはソロも協奏曲も引退するまで暗譜で弾いていた。どうしてリヒテルができなかったことをデ・ラローチャはできたのだろう?「指が覚えていたのでは?」と本の著者は書いていたように思う。つまり訓練の違い。リヒテルはコレペティ経験もありということで、ピアニストというよりは、総合的音楽家、それもピアノが滅茶苦茶上手い音楽家として出発したのではないかと。つまり音楽の世界に耳から入ったところがある。反対にデ・ラローチャは幼少の頃からピアニストとしての訓練をバッチリ受けていた。指そのものが記憶していた・・・みたいな?

「バッハは好きなんだけど暗譜がねぇ・・・暗譜はできるんだけど、もし・・・と思ったらねぇ・・・」「スクリャービンのソナタは好きなの。でも本番で記憶が止まったらと考えるとねぇ・・・」このような場合、楽譜を見ればいいじゃ~ん・・・と思う。記憶を理由に弾くことそのものを諦めてしまうこともない。

本番前、あまりの緊張に気持ち悪くなったりする。「もし止まってしまって後が出てこなくなってしまったら?」この場合、楽譜を見れば落ち着けて、よりいい演奏ができるのであれば、やはり、見ればいいじゃ~ん・・・と思う。でもこの場合は演奏後後悔することもあるかもしれない。「暗譜でも弾けたのかも?」と。このあたりは暗譜と人生は似ている。

暗譜の神様?サムイル・フェインベルグの平均律。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top