ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

絶対に憎しみだけはあげない 

 

ブリュッセルでテロのあった日、友人のルカは仕事でベルリンに滞在していたそうだ。「もしベルリンだったら・・・」とは当然感じたそうだが、あえて不安感に支配されないように暮らしていくつもりなのだと言う。むろん、テロ行為には憤りを感じるが、不安、怒りのような感情に支配されてしまってはテロに屈することになるからと。

東京だって安全というわけではないだろうが、パリ、そしてブリュッセルとヨーロッパの都市が狙われれば、ミラノで生活しているルカは非常に不安だろうと僕は想像する。「街そのものが文化財みたいな所だからね。いつテロがあっても不思議ではない。イタリアでテロがあるとしたら、ローマではなく、ここミラノかもしれないね」

「我々は愛というものを再認識する時だと思うな。愛は不滅だからね。その思いだけがテロに対抗できるのだと思っている」このルカの言葉は、ある男性のメッセージを思い出させる。パリでのテロで最愛の妻を失った、たしかアントワーヌという男性が世界に向けて発信したメッセージ。

「僕は君たちに憎しみだけはあげない。それでは君たちと同じになってしまうから。哀しみに包まれているけれど、君たちは僕たちの世界を破壊することは絶対にできない。なぜなら僕らの世界は愛に包まれているから」

愛に包まれる、シンプルなようでいて人類にとっての永遠の課題のような複雑さをも持つ。人間は皆同じなのだ・・・そう心から思えることへの困難さだろうか?人類の歴史の中で紛争や互いの憎しみ、そのようなものが存在しなかった時はあるのだろうか?生死学の権威、キューブラ―=ロス的に考えれば、人間は愛を知る、無償の愛を学ぶために生まれてくる。人生で出逢う困難なことは愛を知るためのレッスンであるのだと。人類の永遠の課題なのだろうか?愛を知らないから争いや差別があるのだろうか?それは愛を知るためのレッスン課題なのだろうか?人類が愛を学ぶために、学び終えるまでテロは続くのだろうか?

無常感を感じる。人間は皆同じなのだ・・・たったそれだけのことなのに・・・

人間は昔から、このような無常感を感じつつ生きてきたのだろうか?考えてみれば不思議だ。音楽が何故人の感情を揺さぶってしまうのか?音の上がり下がり、重なり、長短、これが人の心を揺さぶる。無常感が音楽を生み出したのか?生きていくことは無常であるからこそ、その痛みを音として作曲家は綴っていったのか?だから音楽を聴くと心が揺れる・・・手の届かない「無償の愛の世界」を音に求めていったのか?

レナード・バーンスタインの言葉が浮かんでくる。「何よりも素晴らしいのは、音楽が伝えることのできる感情の種類は無限だということだ。言葉で表現できない深い感情までも音楽は明確にしてくれる」

感情の種類は無限、それを音楽は表現してくれる。むろん、表現するための手段、ノウハウは重要だろうが、そもそも感情がなければ何を表現すればいいのだろう?

「音楽は感情を代弁してくれるよね」とルカは言う。だからギターを弾くのだと・・・

今、シュタルクマンの演奏を聴いている。今時ナウム・シュタルクマンなんて流行らないのかもしれないし、そもそも知らない人が多いのかもしれない。ソ連時代には活動を国内に限定されてしまっていたところもあるから、それも仕方ないのかもしれない。

最近は、聴き手の心、聴き手の感情を代弁してくれるような演奏が少なくなっていると感じる。

「哀しみを感じてはいるけれど、絶対に憎しみはあげない・・・」

kaz




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