ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

なきゃなきゃ演奏 

 

突然死で死にたいと思う人は意外と多いらしい。癌のような病気を長く患い苦しむよりは・・・と。「苦しまないでポックリと・・・」まあ、気持ちは分かるが、ポックリ逝ってしまったら、人生の締めくくりが難しいのではないかとも思う。現代では医療も進化しているらしいので、「癌です・・・」と宣告されても、すぐに死んでしまうわけではない。この病気のいいところ(?)は人生の有限性というものを再認識できることだろう。深刻な病を患った人の多くは、自分の人生の再設計、再確認をするもののようだ。

そこで気づく。「もしかして、私って人がいいと決めた人生を生きてきたのでは?自分がいい・・・ではなく」と。家族のためにと一生懸命、それこそ休日返上で働いてきた。家族の幸せのためにと。でも、再確認をしてみると、実際には子どもと過ごす時なんてほとんどなかったことに気づく。「これって・・・」いい会社に就職して安定した生活を。「これって・・・」みたいなことに気づく。大概は、いい人生を送るために必要な(こともある?)手段を人生の目的を思い込んでいたことに気づく。

ピアノに限らずだが、演奏する時にも、このようなことは起こりがちなのではないかと思う。実は目的を達成するための手段を、どこか最終目標、目的と思い込んでしまい、本人はそのことに気づかない。人生を歩んでいくのも難しいが、ピアノ演奏もまた難しいものだ。なので、このような思い違いがあったりする。

例えば「暗譜を確実にする方法」とかって、実は手段なのではないか?演奏するうえでの最終目標ではない。でも舞台に登場する直前、多くの人はこの手段を再確認し、実行できるように願う。「途中で分からなくなりませんように」「ミスを連発しませんように」そして舞台に出ていく。

あれ?肝心の音楽は何処へ???

多くの人が悩んでいるメカニカルな問題の克服のようなもの、これって目的ではないような?短期目標のように考えれば、それは目的だろうが、最終目的、最終目標は音楽そのものであるべきなのでは?

自分が演奏する、それも人前で・・・となると、手段のことばかり、言葉を変えると自分のことばかり考えてしまう。自分が練習と同じように弾けて、それなりに満足すればいいとも思うが、聴いている人は?

自分が聴き手になっている時のことを考えてみればいいのかも。どのようなことを演奏者に求めるか、つまりどのような演奏だと自分はいいと思うのか、退屈しないか、椅子に座り通しで辛いということを、ことさら意識しなくてすむか、早く終わらないかな・・・などと心の中で思ったりしないか。

それぞれ思いつくだろうが、自分の演奏の前に、そのことを実行できるように願っているだろうか?「暗譜が」とか「ミスなく」とか思ってしまうのでは?なぜ「他人」の時と「自分」の時で演奏に求めるものが異なるのか?演奏する立場と聴き手の時の立場で願うことが違ってきてしまうのだろう?

手段、つまり練習してきたことを実行できるようにと、本番ではそればかりになってしまう。険しい表情で、鍵盤を睨みつけるかのように、力も入り気味で演奏してしまう。大概は緊張してしまい、「ああ・・・弾けなかった」となりがち。あれ?音楽は何処へ?「できた」「できない」は存在していたけれど、音楽は?

考えてみれば、そうなりがちなのも当然のような気がする。ピアノの練習、さらにはピアノのレッスンって、どこか手段のことばかりになりがちだ。できないところをできるようにする・・・そのことを当然のこととして長年疑問に思わずにピアノライフを送ってしまう。

「できたじゃない?弾けたじゃない?本番も頑張ってね!」そうなると、本番でも(本番だから?)「できますように」「ミスなく弾けますように」となってしまいがちでは?あれ?肝心の音楽は何処へ?なぜ人の演奏に求めるものと自分が演奏する時とで求めるものが異なってきてしまうの?そしてそれを疑問に思わなくなっていく・・・

「こうしなきゃ、ああしなきゃ・・・なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・」

いい会社に就職しなきゃ、いい学校に入らなきゃ、成績あげなきゃ、それはいい人生を送るため、勝ち組になるため、そのためには、なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・

練習しなきゃ、暗譜しなきゃ、あそこを弾けるようにしなきゃ、なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・

一生懸命なのはいいけれど、それを人前演奏での舞台で放出してしまっていいものかどうか?隣の音を盛大に鳴らしてしまった、弾いている本人はズドンをきてしまうかもしれないが、聴いている人は、そんなことどうでもいいと思っているのでは?自分が聴き手の立場になれば、やはりそうなのでは?

指揮者ってどうなのだろう?自分で音を鳴らすわけではないし、緊張の種類のようなものも独奏楽器、独唱のそれとは異なるのだろうか?やはり「なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・」と思って指揮しているのだろうか?むろん、指揮棒をオケの団員の中に振り飛ばしてしまったら、そりゃあ心にズドンとくるだろうが・・・

ラヴェルの「ラ・ヴァルス」ってオケ版とピアノ版(この場合ソロ版)があるけれど、個人的に聴いていて楽しいのは、もう圧倒的にオケ版のほうだ。ピアノ独奏版も編曲が変だとは思わないが(ラヴェル自身の編曲の場合)、いかんせん音が多い。どうしても聴いた印象として、ピアニストの頑張り、というか「こんなに頑張って沢山の音を弾いていますっ!」というガンバリズムを感じてしまうのだ。あのワルツが雲間から出現した場面での、オケ版での恍惚感、興奮にピアノ版は欠ける。どこか「なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・」のような演奏者の周囲1メートル範囲・・・みたいな想いしか伝わってこないことが多い。

バーンスタインの指揮ってビジュアル的にも好きだ。彼の場合、もしかしたら本人は「なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・」と思っているのかもしれないが、少なくとも聴き手にはそれを感じさせていない。ガンバリズムというよりは、バーンスタインの顔の表情とか、身体の動きなどから判断する限り、音楽そのもの・・・という印象を受ける。実際に指揮台の上で飛び跳ねているし、ワルツを踊ってしまっている。音楽そのものだ・・・

実際に音を出す行為をしていないからだろうか?「なきゃ、なきゃ、なきゃ・・・」は自分で音を扱う演奏者にとっては呪いのように解けないものなのだろうか?

「他人と分かち合えない感動など、私にとっては無意味だ」レナード・バーンスタイン




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