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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ミスターM 

 

「Aというやり方がいいんですって!」そうなの?じゃあ・・・とAにひた走る。「最近はAではなくZという最新の方法が主流らしいわよ!」そうなの?じゃあ・・・とZに走る。これって、あまりにも自分の考えというものに不足しているような?

「最近はZという方法があるらしいが、そんなものは間違い。やはりAなのよ」「Aという古いやり方に固執している人たちがいるが、本質はZなの!」AとZの対立、A派とZ派という流派の戦い・・・これもあまりに固いというか。

もし本質というものがMぐらいのところにあったら?AでもZでもないところ。MはA的なものもあるし、どこかZの匂いもする。どちらでもないし、どちらをも否定するものでもない。中間的、曖昧な位置づけ・・・

生徒が読譜をしてきた。ある部分を理解していないようだ。視覚的に読めていないというか、パターンを把握していない。この時に教師が「こうじゃない?」「こうでしょ?」とその部分を弾いてしまえば解決するとしても、安易に耳からの情報を与えて解決してしまうと、その生徒の視覚的課題のようなものは、その後も続くことになる。基本的に曲(課題)は困難なものになっていくのだとしたら、生徒は読譜においての課題がどんどん増えていってしまう。そして「ピアノって面倒!」みたいなことになっていく。「ピアノなんてつまらない」安易に耳に頼ると、その後とんでもないことになる・・・

では、一切耳に頼ってはいけないのだろうか?「生徒が自分で譜読みする能力が損なわれてしまう」とサウンドからの情報を断ち、視覚的情報のみで曲を弾いていく、読譜をしていくということだけでいいのだろうか?

もしかしたら、Mぐらいがいいのでは?読譜に限らずピアノを弾いていく、ピアノを習う、教えるということは、どこかしらM的要素を含んでいるのではないか?そもそも芸術というものはM的曖昧さを含んでいる?

もし感動というものが、自分のイマジネーションを遥かに超えたものから受けるというものであるのならば、音楽を演奏する、曲を弾くという行為においては、聴く・・・ということも必要となってくるのではないだろうか?

モシュコフスキの曲って、いわゆる「黒い楽譜」が多い。でもこの曲はモシュコフスキにしては珍しい「白い楽譜」の曲だ。メカニカルに難しい曲ではない。中級程度の生徒でも弾けてしまうのでは?ショパンのワルツ・・・などよりも易しいのでは?左手は同じリズムを刻み、曲の形はABAという形。Bという中間部は、さすがにモシュコフスキらしいというか、右手の細かな音符群の処理が難しそうだが、「一応弾けました」に達するのはそう難しいことでもないだろう。

左手はいつもブンチャ、ブンチャと単調(?)な刻み、メロディーは親しみやすい。中間部の右手が練習課題・・・

「弾けたわね。右手の細かな音符もよく練習してあるわね。はい合格・・・」

視覚的な読譜、そしてメカニカルな課題の克服、それだけでも曲は一応弾けるだろうが・・・

AでもなくZでもない・・・もしかしてMが欠けているとしたら?

生徒のイマジネーション、さらには教師のイマジネーションをも超える何かが、もし存在しているのだとしたら?それはAでもなく、ZでもないMというものだとしたら?

自分のイマジネーションを遥かに超えた演奏、この演奏に感動した生徒と、全く接したことのない生徒ではモシュコフスキの「セレナータ」を演奏するうえで、何かが違ってくることもあるのではないだろうか?

kaz




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