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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

生みの苦しみ 

 

作曲家というものは、生みの苦しみを味わうものなのだろうか?演奏家は弾けるかどうかは別として、作品は溢れ出る泉の中から選び放題のようなところはあるのでは?小説家と同じように、作曲家の場合は、アイデアやイメージが枯れてしまったら、つまり何も生み出せなくなってしまったら、もうそこには「無」しかないわけだから。過去作品に対しての名声はあるだろうが・・・

自分だけが頼りというギャンブル性というか、大変だなぁ…と思う。もっとも、クラシックの現代音楽の多くから、美しいメロディーというものを感じる才能のない僕にとっては、現代のクラシック作曲家は、「枯れてしまう」「生み出せないかも」などというプレッシャーとは無縁なのかもしれないなどと思ってしまう。むろん、そんなことはないのだろうが・・・

でも、美しいメロディーが生み出されていた時代と、現代とでは、生みの苦しみの度合いのようなものは異なっていたのではないだろうか?

メロディーメイカーのような印象のあるプッチーニ、どうも後期になるほどメロディーメイカーとしての才が枯れていっているように思えてならない。最初の「マノン・レスコー」と最後の「トゥーランドット」では、メロディーが溢れ出ているという点において、そのように感じてしまう。結構、プッチーニ・・・生みの苦しみを味わったのではないだろうか?

ヴェルディの「リゴレット」というオペラに接した経験がなくても、このアリアを聴いたことのある人って多いのではないかと思う。考えてみれば、これは不思議なことだ。なんでだろう?一度聴いたら記憶に刷り込まれてしまうようなメロディー、そして音楽だからだろうか?とてもキャッチ―なアリアなんだろうと思う。実際、ヴェルディ自身も「リゴレット」の初演前に、このアリアのメロディーが巷に流れてしまうのをとても警戒していたらしい。ヴェルディは分かっていたのだ。このアリアは一度聴いただけで人々が魅了されてしまうこと、一度聴いただけで人々が口ずさんでしまうであろうことを・・・

この曲のメロディーが浮かんだ時、ヴェルディはとても嬉しかったに違いないが、こうは思わなかっただろうか?「これ以上の名旋律を自分はこれからも生み出せるだろうか?」と。僕は思ったのではないかなぁ・・・などと感じている。

現代のように、クラシックの新しい作品を口ずさむことのできない時代というものも淋しいような気もするが、沢山の美しいメロディーが、多くの作曲家によって量産されていた時代というものも、作曲家にとってはストレスを感じた時代だったのではないだろうか?

「うん、いいメロディーだ!」でも明日も生み出せるかどうかの保障はない。昔の作曲家って短命の人が多いような気もする。むろん、今とは平均寿命も衛生状態も医療技術も異なるのだろうが、「生みの苦しみ」というものも関係していたような気もしてくる。

kaz




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