ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

チコのピアノ 

 

僕のピアノ練習方法は、特種なのかもしれない。むろん自分自身では「僕は特殊なんだ」と本当は思ってはいないが、多くの人に言われたりはする。新しい曲を譜読みする時、多くの人は一つ一つの音を読んで鍵盤に移していくらしい。僕にはこの感覚が分からない。まずは、ダーッと大まか終わりまで、とにかく弾いてしまう。たとえばリストの曲などに多い「埋め草パッセージ」などは、最初に仕分けし、その部分だけを取りだして練習はする。これは多くの人が行っていると思うが、僕の場合「ゆっくりと」という練習はしない。最初から普通のテンポで弾いていく。でも条件がある。最小単位を一つの音として、音(和音)を足し算していく。ドレと弾けたらドレミと一つずつ増やしていく。でもテンポは遅くしない。音を増やしていくと、困難な箇所があるから、そこを重点的に弾く。ドレミファのミファの部分が弾けなかったら、そこだけ弾く。でもテンポはそのまま。ミファの何が難しいのか、徹底検証をする。このパッセージ練習は自分でも根気が必要だと思うが、効果はあると思う。でもフレーズ単位で練習するわけではない(それよりも小さな単位になるので)ので、人によっては「そんなの無理・・・」などと思うらしい。

あと、一つ一つの音符を視覚的なものとして捉え、鍵盤に移していくという感覚が分からないのは、どこか耳コピ要素が譜読みの時からあるからだろうと思う。音は頭の中で鳴っているので、その音というかサウンドの確認作業が僕の譜読みになるのだと思う。でも耳コピだけでは弾けないから、楽譜を見て確認していくのだ。アルゲリッチではないので、隣の部屋で聴いていただけでプロコフィエフを弾いてしまうなんていう芸当は僕にはできない。

考えてみると、僕のような独学色の強い人は、割と自分なりの練習方法を考えているようだ。幼いころから「きっちりピアノのお稽古に励みました」という人は楽譜を視覚的に読んで、最初は作業として認識した音群を鍵盤に移していく傾向にあるように思う。クラシック以外の音楽に親しみ、たとえばジャズの訓練を受けたような人は、やはりサウンドを確認するツールとして楽譜が存在しているケースが多いように思う。楽譜なんかなくても弾けたりとか・・・

ピアノを長年習っているような人でも、視覚的方法で曲を作り上げていくタイプの人は、本番が近い時だけ人前で披露することができるという、考えてみれば変わった傾向がある。本番で弾いた曲を忘れてしまい、新しい曲が譜読み中だったりすると、「私・・・今、何も弾ける曲がないの」なんてことになるらしい。

ピアノは楽しいけれど、練習は嫌い・・・どこか練習を滝修行か何かのように思っていないだろうか?クラシックの曲を仕上げていく過程はそのようなもの・・・と言ってしまえば、そうなのかもしれないが、あまりに視覚的要素に依存していないだろうかとも思う。べつに「ではソルフェージュ能力の育成を!!!」なんて力まなくても、頭の中にあるサウンドをまず最初として、それから譜読み・・・とクラシックピアノ練習法の王道を、ちょっとだけ順序を変えてみれば何かが起こるのではないだろうか?

いきなり喜劇俳優の話になるが、映画がサイレントからトーキーになった頃、マルクス兄弟という人気俳優たちがいた。本当に血縁関係にある兄妹で、グル―チョ、チコ、ハーポ、ゼッポの各(?)マルクスは喜劇的センスを売りに、人気者となった。個人的にはスラップスティック・コメディはあまり観ないので、この人たちの映画も身近なものではないのだが、特にチコとハーポは楽器が得意なのに驚く。もともとは、ヴォードヴィル出身の人たちなので、音楽、楽器演奏は彼らの「芸」だったわけで達者なのも当たり前なのかもしれないが、彼らの演奏は、最初に母親から手ほどきを受けただけの、ほぼ独学の演奏なのだ。

「お稽古に励み、練習に励みました。でも発表会で弾く曲しか弾けません」という、ある種の固さがこの人たちの演奏にはない。この固さがあったら、ヴォードヴィルの世界では生き残れないだろうとも思う。

なにかが自在なのだ。一日に何時間もピアノの練習をする・・・なんて時間は持てなかったはずだ。一家は貧しかったし、すぐに芸人として働かなければならなかったはずだから。でも自在に弾ける。何故だろう、順番が違ったのではないだろうか?視覚的に読む・・・ではなく、サウンドを具現化するツールとして楽譜があった・・・みたいな?

チコはピアノが上手かった・・・

kaz




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