ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

白い楽譜 

 

僕は絵画を鑑賞するという趣味はない。知識もない。展覧会などは雰囲気を楽しむというか。絵は嫌い・・・ではないけれど、自分で絵画という形態で何かを表現したいという欲求はない。そんな僕でも絵画教室に通うことはできる。そこで基本的なデッサンの方法とか、水彩画の基礎とか絵の具の混ぜ方とか、そのようなことを習えば、一応「絵」らしきものは描ける可能性がある。心の中で全く表現意欲というものが皆無でも。いい絵が描けるとは思えないけれど。

ピアノのレッスンでも似たようなことが起こっていないだろうか?発表会に向けて指導を始めたとする。「エリーゼのために」でも「トルコ行進曲」でも、もっとシンプルなギロックでもブルグミュラーでもいいが、教師側が「このようなアドバイスをして生徒ちゃんの表現もつきました。まだ時間もあるので本番が楽しみです」のようなスタンスでいていいものかどうか、そこは少々疑問に思う。むろん、的確なアドバイス、指導があったからこそ、生徒が表現をつけて弾けたのだろうが、教師の指導がなければ「表現」というものがなかったのであれば、アドバイスによって、それができたということよりも、アドバイス以前に生徒が「何もしてこなかった」ということに問題意識を持つ必要もあるのではないだろうかと思う。「やり方」「方法」を知らないと、何もしない、何もできない・・・というところに問題が潜んでいる。絵画を描くということと、ピアノを演奏するということは、表現ということで一致していると思う。つまり、最初に欲求ありき・・・なのではないかと思う。でもそこの順番が逆になっていないか、それ以前に「表現したいという欲求」「どうして表現したくなったのかの動機」という部分がピアノのレッスンでスルーされてしまっていないだろうか?

むろん欲求だけでは人に伝わらないから、表現のノウハウは学ぶのだろうが、そもそも欲求がないところに何をすればいいのだろう?「一応弾けるようになったので表現する」ではなく「表現したいから弾けるようにする」なのでは?

奏法などでも逆現象が起きていないだろうか?このような弾き方をすればこうなる・・・ではなく、このように弾きたい、表現したいから弾き方を探すというか、学ぶというか・・・

何かしらの順番が逆になっているのだ。それでも一応「曲は弾けました」という状態になるだろう。子どもの演奏に限らずだが、どこか教師の影を感じる演奏や、「本当にあなたはそのように弾きたいの?」という演奏がなんとなく多いような気がする。欲求とか、なぜその人が、その曲を弾いているのかという、必然性が感じられない演奏が多い。

ピアノ道において、最初の動機、欲求というものを維持して感じることの難しさは、弾いている曲の中に、自分にとっての課題がテンコ盛りというところにある。実力に見合わない曲を弾いているとそうなりがちだと思うが、問題はそう単純でもないような気がする。ピアノを習い始める動機、欲求としてダカンの「かっこう」を弾きたいというものがあったとする。その人は「かっこう」を弾けたらピアノ熱は冷めてしまうのだろうか?「ああ弾けたわ。これでピアノは満足だわ」となるだろうか?多くの場合は、さらに高い所にある曲に憧れていくのではないだろうか?階段を一歩ずつ昇るように・・・

それは極めて自然なことだと思うけれど、いつのまにか「ピアノの練習」=「できないところを弾けるようにすること」となってしまいがちなのではないだろうか?最初の動機とか、欲求というものよりも、克服が目標になっていってしまう・・・

演奏を聴いて涙した・・・自分でも触れられるかも、いや、触れたいの・・・この部分がスルーされていく。

とてもシンプルな曲に戻ってみるというのは、案外といい方法かもしれない。リストの超絶技巧練習曲を次のサークルで弾く予定の人でも、シンプルな曲を弾いてみる・・・

この場合、伴奏に挑戦してみるのもいいと思う。楽器系のソナタとか、ピアノトリオなどもいいと思うが、この場合、楽譜が複雑になりすぎることが多い。声楽の伴奏などがいいのではないだろうか?むろん、中にはピアノパートの難渋な曲もある。シューベルトの「魔王」とか。そのような曲は避けて、「楽譜は分散和音の連続だけで~す」とか「単純構成の和音をただ弾いているだけで~す」のような、いわゆる「白い楽譜」の曲を練習してみるとどうだろう?たとえばトスティの歌曲とか・・・

近所に声楽科出身の人がいて、気軽に合わせてくれる人がいる・・・なんて人はそうはいないだろう。しかも卓越した音楽家である歌手が、この場合は理想なわけだから、そのような人はそうはいない。目的は表現ということだから、想像でいいのではなかろうか?偉大な歌手の歌を頭の中で鳴らし、かつ自分でそのような歌手になったつもりで鼻唄でいいので、歌詞も「なんちゃって・・・」でいいので、なりきって歌ってみる。同時にピアノ譜も弾いてみる。伴奏してみるわけだ。歌のパートは偉大な歌手(あくまで想像でよろしい)なのだから、「分散和音だけで~す」のようなピアノ譜も歌手とのバランスが取れるように、「そのつもりになって弾いてみる」ことが大事だ。間奏というものがあるので、この部分で「あらら・・・棒弾きだわ」にならないように、思い切り表現してみる。

実際には誰が聴いているわけではないのだ。「なんちゃって・・・」でいいので、なり切ることが非常に大切だ。あなたはトスティ歌曲の伴奏を美しく弾けるだろうか?日頃練習しているソロの曲と比較できないくらいにシンプルな「白い楽譜」を表現者として弾けるだろうか?

僕はこのような練習をよくする。練習というより、声楽が好きなので、練習というよりは娯楽に近い。でも「白い楽譜」は何かを鍛えてくれる。頭の柔軟性を鍛えてくれるみたいな?

トスティなんてピアノ弾きには遠い存在だが、いかにも「イタリア~ン、声楽、歌い込む~」みたいなところがいい。伴奏譜も極めてシンプルだ。1900年代になっても、このような歌曲だけを残し続けたトスティのロマンに憧れる。

これは「悲しみ」というトスティ歌曲の中でも有名な曲。作詞者のマッツォーラという人は、なんと10代でこの詞を書いている。


「悲しみ」  詞:リッカルド・マッツォーラ   曲:フランチェスコ・パオロ・トスティ

見てごらん、はるか彼方で太陽が波間に死んでいく
鳥たちの群れも野に戻っていく

悲しみを感じる。でも何故?それがよく分からないんだ
麗しの人、僕はあなたの瞳を見つめながら
黙ってあなたに身を寄せる

マントのような影が空、海、そして万物を覆う
僕は震えてしまう、涙を浮かべながら・・・

アヴェ・マリアの鐘が鳴る。悲しいんだ。
でもどうして?それが分からない・・・
あなたと祈りたい。心から・・・

この夕暮れに、この輝かしい時に
僕たちの愛し合う心から祈りが流れる

この憂鬱、なぜだろう?
分からないけれど考える
いつかは僕の人生は
夢とあなたを失うのだろうと・・・





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