ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

あなたの練習 

 

オッタ―の非クラシックシリーズ(?)の第2弾。クラシック歌手のシャンソンということになる。貼りつけたシャンソンはピアフの名唱(絶唱?)で有名な曲だ。オッタ―もクラシック的発声ではなく、地声に近いような、かなり大胆な歌い方をしている。日頃彼女が歌っているクラシックの曲とは、かなり異なる雰囲気ではある。でも共通しているものがある。オッタ―の歌うバロックオペラのアリアであろうと、シューベルトであろうと、ベルリオーズの歌曲であろうと、そこにピアフシャンソンと共通しているもの・・・

クラシックの曲だろうと、その他のジャンルの曲だろうと共通しているもの・・・

オッタ―という歌手、というか人間の内側から発散されるような音楽のエネルギーを聴き手が共有、受け取るという構図だ。でも考えてみれば、この演奏者の内側からのものって、クラシックだろうとジャズだろうとシャンソンだろうと変わらずに存在しているべきものではなかろうか?

どうしてクラシックの曲を演奏する時には、このエネルギーの流れのようなものが希薄になってしまうのだろう?なんとなくポップス系とかジャズの素養のある人のみが得意みたいな?クラシックだって同じじゃいけないのだろうか?

ジャズピアニストがアドリブで演奏している。この時、ピアニストが必死に暗記しました・・・みたいなジャズなんてありうるだろうか?ポップスの歌手が、ミスなく歌えれば・・・なんて感じで歌っていることがあるだろうか?演奏者側からの何かしらを感じるものではないだろうか?

クラシックの演奏となると、なぜに「ミスなく」とか、そのような固さが存在してしまうのだろう?楽譜の存在?クラシックの演奏は自分という人間の感受性を殺して、研究成果を共有するもの?

クラシック、ここではピアノを弾いている人ということにするが、ある曲を人前で演奏する時、「あなた」とか「自分」というものはどのような位置づけになっているのだろう?

一般的なピアノ学習、レッスン、まずは楽譜を音にできるように・・・という構図になっていないだろうか?できないところ、難所を弾けるようにしていく。そしてある程度弾けるようになって、しかるべき表現をつけていく・・・みたいな?

「しかるべき表現」という熱い表現欲求があるからこそ、ピアノを弾くのでは?その曲を弾くのでは?あなたが感じた熱いものを表出したいという欲求があるからこそ、その曲を、ピアノを弾くのでは?「弾けてから・・・」では順序が逆なのでは?

幼い頃から「弾けるようになりました。はい合格です。次の曲も頑張ってね」というスタンスでピアノを、クラシックを弾いてきてしまったならば、いきなり「何かを表現してごらんなさい」などと言われても困惑してしまうのではなかろうか?

どのような演奏を聴いても「別に・・・」としか感じない人は、かなり特殊な人だと思うし、そのような人は、そもそもピアノなんて弾こうと思わないだろう。誰でも「あっ、この演奏、この曲・・・素敵だな」と感じる能力はあるのだ。

表現豊かな人の演奏を聴いて思う。「ああ・・・私はこのようには弾けない。才能の違いなのね」・・・この考えは全く間違っていると思う。そこには「クラシックの曲ってこのように仕上げていくもの」というある種の固い考えがそう思わせているのでは?才能ではなく、発想というか、順序が間違っているのでは?

弾けるようにする・・・これは目的ではなく、手段ではなかろうか?

kaz




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