ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

昭和ピアノとチェルニー 

 

チェルニーに苦しめられた人は多いらしい。僕は弾いたことがないので、チェルニーの練習曲には憧れのような気持ちも少しだが持っている。チェルニーって、いかにも「私・・・勉強しているの、練習しているの、努力しているの!」という気分に浸れそうだ。

それよりも「基礎なんです」という感じに憧れを抱くのかもしれない。チェルニーのような、いかにも「基礎力を養成するんです」みたいなものに触れた経験がないと、そのようなもので精進してきた人と、最後の最後で差がついてしまう・・・みたいな?

昭和のピアニストの修業時代にはチェルニーは必ず通らなければならないものだったようだ。一回のレッスンで4、5曲は合格するのだ・・・みたいな日記や文章を読んだことがある。でも、そうでもしないと、チェルニーって終わらないよね?30番、40番、50番、これだけで120曲?レッスンって昭和の時代だって週に一度が普通だったと思うので、チンタラと構えていては絶対に終わらない。

もしかしたら、カール・チェルニーに苦しめられたのではなく、「昭和ピアノ」に苦しめられたのでは?「しっかりと鍵盤の底まで弾きなさ~い!」なんて感じでチェルニーをバリバリ弾かされたら、そりゃあ苦しいだろう。

チェルニーの練習曲って、どこか爽快感がある。でも、その爽快感は「昭和タッチ」でバリバリと弾くチェルニーでは味わえないもののような気がする。これはチェルニーだけに限らずだと思うが、この種の曲は「鍵盤の底まで」ではなく「鍵盤の底までの途中にあるポイントを狙う」みたいな感覚のタッチを養うための練習曲だったのではなかったかと思ったりもする。

狙ったタッチで、しかも音楽的には複雑なものを回避して、基礎的音楽語法みたいなものをも狙う練習曲だったのでは?たとえばスケールの上昇は微妙なるクレシェンド、スピードアップが成される・・・みたいな?いちいち「クレシェンド」「アチェレランド」などと記されていなくても。このような、当然身につけておくべき基礎的な音楽語法を学ぶ練習曲・・・

チェルニーを流麗に弾けると、ベートーヴェンも流麗に弾ける気がする。でもチェルニーもベートーヴェンも「昭和ピアノ」「昭和タッチ」の犠牲になってきたのではあるまいか?「しっかりと弾きましょう!」「ドイツ風に厳格に!」「カッチリと。ショパンじゃないんだから!」みたいな?美しいチェルニー、美しいベートーヴェンではいけないの?

チェルニーの不幸は、チェルニーで身につけたものを発揮するべき曲が現代では廃れてしまったということにもあるのではないだろうか?たとえば、ウェーバーのピアノソナタなんて現代の演奏会の主要レパートリーからは完全に外されてしまっている。アマチュアのサークルなどでもウェーバーのソナタなんて弾く人は、かなり特殊なのでは?

実はウェーバーのソナタは往年の巨匠ピアニストの主要レパートリーでもあった。まぁ、全楽章という感じではなかったが。

モイセイヴィチが弾くウェーバー、このタッチ感覚は「昭和タッチ」ではなく、まさに「狙ったタッチ」の感覚だ。さらに、基本的な音楽語法も実に自然に表出されている。そう、本来は、チェルニーはこのような曲を、このように弾くための練習曲だったのでは?

これからの時代、このウェーバーのような曲が復活してくるのではないだろうか?そしてチェルニーの練習曲も新時代を迎えるのではないだろうか?

日本では今のところ、モイセイヴィチのようなタッチ感覚は主流ではないようだが・・・

kaz




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category: ピアノ雑感

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