ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

身代わりギロック 

 

才能のある子ども、才能のある人は、どこの国にもいて、その人たちはどこかバランスがいいのだ。その人個人の能力だったり、教師の指導だったり、その指導を咀嚼する能力だったり、教師の生徒との関係だったりのバランスがいい。このような人たちはどの国、どの地域の人であったも上手いのかもしれない。

いわゆる、困ったチャンでもなく、普通の子、普通の人というところの人たちに、その国ならではの特色が出るような気がする。

日本の子ども、アマチュアは真面目なのだということを感じる。自分のことは置いておくが。自己批判が強いのか、本心を言わないのか、そこは不明だけれど、「ああ・・・弾けなかったぁ」みたいな?演奏の感想はイコール反省文のような?

でも基本的な指さばきみたいなものは、アメリカの人よりも日本の人のほうが優れているように思う。指がしっかりしているというのだろうか?だからなにもそこまでチェルニー、ハノン・・・と猛練習しなくても・・・などとは少し思う。惜しいのは、表現力不足という名の表現の仕方が分からない・・・みたいに聴こえてしまう演奏が比較的多いだろうか?あとは「つっかかる」という人が多い。つっかかるということは、主に和音の変化に指と頭がついていかないので、つっかかってしまう・・・みたいな。でも指は動くという人が多いように僕には感じる。

アメリカの子ども、アマチュアの演奏、いわゆる「普通の人」の演奏の傾向だが、日本とは、かなり異なる。とても印象的ですらある。どうも、速いパッセージの苦手な人が多い感じ?恐怖の32分音符・・・のような?指がフニャッとしている感じの人が多い。でも不思議なことに「つっかかる」という人は日本よりも少ないような?パッセージを弾きこなすことに困難な場合、表現力不足になりそうなものだが、意外と音楽的だったりする。そこのところがまた、指のフニャフニャ感を強く感じたりするところもであったりして・・・

どうも「教育」というものがアメリカと日本で異なるのかもしれない。目指す方向性のようなもの?あとは日本人は手先が器用だとか、真面目だとか?

音楽院の学生の演奏もよく聴いたものだが、多くは留学生の演奏だった。個人的にはロシアと韓国からの留学生が圧倒的な力を誇っていたように思う。ここでも思ったのが、日本人留学生は真面目な演奏であるということ。アメリカの音楽院でありながら、あまり「アメリカ~ン」という人の演奏は聴いたことはないのだが、このレベルでもアメリカ教育を受けてきた学生の指は、どこか弱い・・・という印象を受けた。ただ、下手・・・と言いきってしまえない何かはあるような気がする。とまったり、つっかかったりなどということは、さすがにないにしても、指の闊達さ、強さからくる演奏の充実度のようなものは物足りないような気はした。でもリサイタルはできてしまうんだよね。そこが不思議。「大丈夫?」みたいな、どこか頼りないサウンドなんだけれど、ブラームスの3番のソナタを暗譜で破綻なく弾き切ってしまうような、どこかアンバランスなところも感じる。

日本の場合、平均的なピアノの辞め方(?)をした場合、小学生終了時か、せいぜい中学まで続けた・・・というケースが多いだろうと思うが、この人たちが将来大人になってピアノを再開しない場合、何かの時に「ねぇ、ピアノ習ってたんでしょ?何か弾いて!」と言われたら、どのくらいの人が何かしらの曲を弾けるだろう?

アメリカはピアノに限らず、何かしらの楽器を演奏できるという人が非常に多い。どこか拙さはあっても、「ねぇ、何か弾いて!」みたいなときに躊躇せず、楽しそうに弾いてしまうようなところがある。これは文化の違い、国民性、それとも教育の違い?でも弾けたらいいよな・・・と思う。人生の中にピアノが入り込んでいるような感じで、とてもいいと思う。

でも、指があまり動かない、定まらないということで悩んでいるアメリカ人の存在も知っている。「なんで東洋人の指はそんなに器用なんだ?自分の指を切り取ってしまいたくなるよ」と泣いたアメリカ人も実際に知っている。

別に、プロになるわけではない、そんなにバリバリ弾けるようになることよりも、楽しんでピアノを弾ければ、ピアノのある人生なんて素敵じゃない?

今、教材や導入段階の曲など、かつてのバイエル、ソナチネ・・・みたいな一辺倒のものではなく、いろいろなものが取り入れられている。いいことだと思う。選択できるということはいいことだ。アメリカから入ってきた教材は圧倒的に多いのではないだろうか?楽器店のピアノ楽譜の棚を見るとそう感じる。ギロックなんて昔はいなかった。(いたけれど、ここまで一般的ではなかった)

達者に弾くことよりも、まずは楽しんで弾くこと、子どもの心に寄り添うような曲を弾いていくこと・・・ギロックとかね。

大変によろしいことだと思う。でも日本でも指がフニャフニャな子ども、つまり将来の大人は増えていく可能性はゼロではないような気はする。現在でも、ギロックなら、なんとか様になるけれど、どうも古典派は・・・という生徒は少数ながら日本でも出現しているのではあるまいか?

人は何かを聴いて感動した場合、それを自分でも綴りたくなったら、感動したものにより近いものを再現したいと思うものではないだろうか?僕はそうだが・・・

この時、指が動かない、何かしらの基本的要素が落ちていたら、それは不幸なことなのではないか?ピアノって楽しんで弾くということではなく、本当は弾けるから楽しいのかも?

どちらがいい、悪いということではないのだと思う。やはりどこかピアノに対して固さがあり、弾いてと要望されても「何も弾けません」というのは、やはり勿体ない。でも喜んで躊躇なく弾くという楽しみがあったのだとしたら、「指が弱い」「基礎がない」ということは、それもやはり楽しいことではないような気がする。

「どうも古典派の曲はねぇ・・・指練習なんてしない子だし。でもギロックだったらなんとか楽しそうに弾いてくるし、練習も、まあしてくる。そうよ、プロになるわけでも音大に行くわけでもないんだし、雰囲気も出て本人も楽しいのだったら、ギロック・・・いいんじゃない?」

よくないよな・・・と僕は思う。ギロックは身代わりとしての使われ方は望んでいないような気がする。

美しい曲、子どもの心に寄り添う曲だからこそ、「いけないよな」と思う。

なんとなく、日本のピアノ教育は、これからアメリカ化していくような気がする。躊躇なく、大人になってからも楽しめて、いいことばかり?でも指のないピアノ弾きは、やはり不幸かもしれないよな・・・

kaz




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