ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

「ユモレスク」は「イスラメイ」よりも難しいのか? 

 

ショパンの「ノクターンOp.9-2」とかドヴォルザークの「ユモレスク」のような曲を練習会などで弾くのは、アマチュアにとってはなかなかに厳しいものとされている。「シンプルな曲ほど演奏者の力量が露出されてしまう」みたいな考えがある。反対にリストの「ラ・カンパネラ」とかバラキレフの「イスラメイ」のような曲は、音符をサウンドにするのが難しいし、弾きこなすことが難しいとされている。

実際に自分でも、特に人前で弾く機会などがあると、そのような考えを、なんとなくスッと納得してしまうところがある。「シンプルな曲はボロが出る」みたいな?では、いわゆる超絶難曲はボロが出ないのだろうか?聴き手を音符の量で幻惑させることができる?弾いただけで「凄~い!!!」となる?

ここには聴き手感覚と弾き手感覚の違いのようなものが潜んでいるような気がする。弾き手感覚だけで曲を弾いてしまうと、難曲をこなすということは、どこか肉体的な満足感を得てしまう。「弾きこなしたんだぁ・・・」みたいな?シンプルな曲では、そのような満足感はあまりなかったりする。だから難しい?

聴き手感覚の立場、鑑賞者として思うことは、非常に単純。難曲が上手な人はシンプルな曲も上手だということ。「イスラメイ」は素晴らしいのに「ユモレスク」は稚拙・・・という人はいないというか。音は完璧に並んでいても、それだけで上手だと思わない感覚は誰にでもあるものなのでは?「ユモレスク」を弾くとどこか稚拙な人は、やはり「イスラメイ」を弾いても稚拙であるような気がする。曲の表面的な難易度とか出来栄えによって、演奏に対しての印象がコロコロ変わることはない。シンプルな曲であれ、難曲であれ、分類されるのは「いい演奏」か「音を並べただけ」のような演奏になるのでは?聴き手とすればそうだ。

では弾き手感覚として、なぜシンプルな曲は難しいと感じるのだろう?ボロが出やすいと感じるのだろう?練習会で「ユモレスク」を弾くことに、なぜ多少の勇気が必要なのだろう?難曲のように「目くらまし効果」を期待できないから?

シンプルな曲ほど弾き手感覚、弾きこなしたぞ満足感というものを得にくい。そして自分の音がいやでも聴こえてきてしまう。つまり聴き手感覚が微妙に入ってきてしまうのでは?弾き手感覚での満足感だけに浸れない。

「ユモレスク」の左手(伴奏)だけを弾いてみる。「えっ、私ってこんなだった???」みたいなことになる可能性はある。ツラツラと「スカルボ」を弾ける人でもそのような可能性はある。

自分の音がシンプルな曲ほど聴こえてきてしまうので、弾き手感覚とすれば、そのような曲ほど難しく感じる。聴き手感覚が無意識に入ってきてしまうから。でもだからといって、表現という意味において、難曲、音の多い曲ほど簡単ということもないのでは?そのような曲は自分の音を聴くということが難しいので、シンプルな曲ほど弾き手として「意識しなくてすむ」というだけなのでは?

「ユモレスク」のほうが「イスラメイ」よりも難しいのか?

「イスラメイ」のほうが「ユモレスク」よりも難しいのか?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top