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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

「僕のこと好き?本当に?」 

 

ピアノを練習していく過程において、技術的な課題を克服していくのと、音楽的に何かしらのものを表出するのと、どちらが困難なのだろう?技術と表現はリンクしていて、そこは切り離せないものと言われれば、そうなのだろうが、でも技術的なものは、それが表面的に「弾けるようになりました」のようなことであれば、簡単・・・とは言わないが、実現可能領域のようなところはある。モーツァルトの「バター付きパン」であれば、音符再現はそれほど難しくはないだろうと思う。

「なんだかアッケラカ~ンとしてしまう?」みたいな演奏になってしまったら?もし「だってプロが弾いているんだし・・・」と判断し、そのまま進むなり、そのアッケラカ~ンサウンドに美的なものを感じる感性・・・というのも、もちろんありだろうから、その場合はそれでいいのだと思うが、もし箱庭ピアノから平原に飛び出し、自分の感性だけしか頼れず、その心からの欲求がアッケラカ~ン的なものではないとしたら?そして進むべき方向、ハウの部分が見つけられなかったら?「自分はこうは思わないし、実際の自分の演奏から足りないものも感じるんだけど、どうしていいのかが分からない・・・」という場合。

何もない平原で、自分の感性だけしかないように思えるが、探せばヒントはある。楽譜というヒント。速度の指定はあるのかしら?ウナ・コルダとかあるけど、当時のピアノってどうだったのかしら?そもそもモーツァルト自身が書き込んだ記号なのかしら?

ここで知識を追ってもいいだろうと思う。当時のピアノって?・・・とか。モーツァルトって?・・・とか。知識は道しるべとなる。モーツァルトって人間的というか、なんとも凄かったのね・・・みたいな情報を得るのは助けにはなる。たとえば、モーツァルトはスカトロ趣味だったとか・・・

知識と自分の感性をミックスさせるというのかな?言葉での説明は非常に難しい。僕の場合、先ほどの日本人プロの演奏から感じられず、欲しいなと思ったのが、モーツァルトの寂しさ・・・と言うのだろうか?長調の悲哀というのだろうか?それが足りないなと感じた。だから「アッケラカ~ン」という演奏に感じたのだろう。つまり、僕の感性はそこを否定しているのだ。

長調モーツァルトの悲哀?むろん、すべての曲からではないが、モーツァルトの長調の曲(非常に多い)からは寂しさとか、甘えたがり少年みたいなものを感じる。「僕・・・寂しんだよぉ・・・」という小さな叫びみたいな?「一緒にいてちょうだいよぉ・・・」みたいな?

何かと自分の感性をミックスさせる、これって鑑賞によって得た感動というものとも関係しているのではないだろうか?ややもすると、楽譜を開き「さあ・・・弾けるようにしなければ!!!」と頑張りがちだけれど、鑑賞体験から得た感動とのミックスという部分も必要なのではないだろうか?この部分が「私って何でピアノを弾いているの?」とか「なんでこの曲を選んだの?」「いったい私はこの曲で何をしたいの?」みたいな部分とリンクしていくのではないか?

そもそも「バター付きパン」という曲がモーツァルト自身の曲なのだか疑わしいような気もするが、どこか悲哀を感じる。どうして「寂しいんだよぉ・・・」という声を感じてしまうのか?それはモーツァルトの曲を聴いた時にも感じた僕の感性と一致するからだと思う。

自分自身の鑑賞体験から、今、「寂しいんだよぉ・・・」的モーツァルトとして浮かんだ曲がホルン協奏曲。むろん、「長調」=「明るい」とカテゴライズするならば、この曲は明るい曲なのだろうが、でも僕の感性は「寂しい」と感じるのだ。だから自分が感じた「寂しい感性」と「バター付きパン」とをミックスさせたくなるのだ。

ちなみに、モーツァルトのホルン協奏曲はデニス・ブレインの演奏でなければならない。彼の演奏から最もモーツァルトの「一緒にいてくれる?僕のこと嫌いじゃない?」という要素を感じるから。

kaz




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