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ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

非伝統的なものへの寛容 

 

差別をしている、受けているという実際の場面に遭遇することは、日本の場合は少ないのかもしれない。でも、そのような場面に遭遇すると、非常に悲しい気分になる。別に自分に対してではなく、見ず知らずの人に対してであっても。非伝統的なものへ寛容的でない人って、どこか心の狭さがあるのだろうか?考えられるのは、そのような人は、自分自身が伝統的とされる、常識的とされる価値観に盲目的なので、自分自身の人生に対しても不寛容なのではないかと想像する。

ピアノブログを徘徊していると、練習会や演奏会でも演奏後記の文章に出会う。アマチュアの場合、大概は反省文になっている。本当にそう感じて書いているのかもしれないが、その文章を百パーセント信じるならば、その人はピアノを弾くということをどのように感じているのだろうと思ってしまう。そんなに否定的に自分自身に対して感じることもなかろう、書くこともなかろう・・・と。この場合も、なんだか悲しくなる。自分自身に寛容ではないというか、自分に対して自分で差別しているというか・・・

「・・・と思われる」という心理なのだろうか?絶対に肯定できる、自分を褒めてあげたい要素があったとしても、それを正直に書いてしまうと、「何様?」とか「あれで?」と思われるということを何よりも恐れる・・・

自分に対しての差別では?いいところもあったのなら自分を讃えればいいのに。でもそれは常識的ではない?非伝統的行為?「永遠の初心者なのでぇ・・・」のような文章は、なんだかとても悲しくなるのだ。

人には可能性があるし、夢を実現できる能力も機会もある。でも狭くなってしまい、自分を差別してしまうとそれが難しくなってしまう。そして自分の道を自らが閉ざしているという可能性があるということすら、思わないのだ。自分の人生を一番愛せる人は、自分自身なのに。

僕は、ほとんどのアマチュア、再開組にしろ、大人から始めた組しろ、自称初心者だろうと、音楽留学できると思っている。留学なんて聞くと、「ジュリアード音楽院?」とか「バリバリ弾けないし・・・」とか「日本の音大を優秀な成績で卒業したエリートだけが留学するんでしょ?」みたいになりがちだ。日本の音大は演奏家育成(実情はどうでも)か、音楽教員養成の大学という印象がある。アメリカにもそのような大学はある。でも音楽を学問として一般的に学ぶ大学もある。数としてはそちらの方が多い。ジュリアードとかカーティスのような名門音楽院ばかり有名で、一般的な音大の実情は日本で知られていないのではないか?

「モーツァルトの声を聞いた夜」(片岡ユミコ著:三樹書房)という本、この本は留学ハウツー本ではないが、おそらく日本語でアメリカの一般的な音楽学部の様子の分かる唯一の本なのではあるまいか?著者は昔ピアノを習っていた。チェルニー30番を終了し、難渋ではないソナタなどは弾いていた。でも多くの人と同様、ピアノは辞め、就職し・・・という人生を歩む。ほぼピアノ再開組と同じような経路なのではないかと思う。初めは音楽(ピアノ)とは別の学問を専攻するため渡米している。非専攻学生のための「ピアノ」という講座(レッスン)を履修する。初めてのレッスンではショパンのノクターンOp.9-2を弾いている。その後はメンデルスゾーンの無言歌とか。著者は音楽専攻の学生になるためオーディションを受け、音楽学部の学生となる。

やはり卒業するためには、名門音楽院のようにリサイタルはする。フルリサイタルではないが、ハーフ、またはクォーター程度のプログラムは用意しなければならない、もちろん、一般公開のリサイタルとなる。その時の著者のプログラムはこうだ。

バッハ 平均律からプレリュードとフーガ
モーツァルト  ソナタ ハ短調 K.457 (全楽章)
ショパン  二つのノクターン  Op.32-1  0p。48-1

著者は、演奏そのものの経験の不足を感じていた。初めてホール満員の聴衆の前で弾くのだ。「練習の時のようには弾けない・・・」それでも最後の音まで弾き切る。音が鳴りやみ、一瞬の静寂。そして指導教授の低い声がホールに響く。「ブラヴォ」・・・続いてホールの客席の椅子がバタンバタンと鳴り響く。すべての聴衆が立ちあがる・・・スタンディングオベイションと光に包まれる著者・・・この本の中で最も感動的な場面だ。

「チェルニー30番程度だしぃ・・・」「難曲なんか知らないしぃ・・・弾けないしぃ・・・」

自分自身に差別をしていたら、このような瞬間は絶対に味わえない。

ここまで書いて矛盾しているかもしれないが、僕は安易な留学は勧めない。金銭面と英語力は日本で身につけて行った方がいい。費用は「絶対にニューヨークのマンハッタンに住む!」というのでなければ、意外と安いかも。ネットで調べられる。英語は、会話ではなく「トーフル」がすべて。大学側の要求しているスコアには達していた方が絶対にいい。スコアに達していても「授業はチンプンカンプン」というのが現実。でもそこは情熱で乗り切る。別に語学留学するわけでもないのだから、学生の目的が何かを大学側は考慮してくれるだろう。試験前は寝ないで頑張る・・・みたいな?アルバイトでもしながら・・・とか、語学学校に現地で通いながら・・・という安易な発想では実現できないと思う。

高齢者学生とか熟年学生なんかはウジャウジャといる(勉強している?)ので、その雰囲気を感じるだけでも、「私なんか・・・どうせ・・・」という思考そのものが、異端であり、自分を差別しているということを感じるだろうと思う。

「今さらこの年齢で・・・」は自分への差別だと思うが、大人の場合、日本での立場とか基盤のようなものがあるのが普通だ。費用や言葉の問題よりも、こちらの方が大変だろうと思う。子どもの世話はどうするの・・・とか。

新潮文庫に「スペイン子連れ留学」という本がある。単行本として昭和51年に鎌倉書房から出版されたものの文庫化。著者の小西章子さんは、7歳、4歳、2歳の女の子たちの母親だ。1970年代にこのような留学をしてしまった人もいるのだ。もちろん、旦那を日本に置いて。ものすご~く周囲から反対されたと思う。でも僕はこの留学を著者の我儘とは思わない。だって、男性が三人の娘の世話を妻に託し、単身留学したとしてもそれを我儘とは思わないから。

差別って人に対してや、新しい未知の考えだけにしてしまうものではない。自分に対しても人は差別をしてしまうことがある。

kaz




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