ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

クラシックにも流行がある? 

 

ヨゼフ・ホフマンの演奏は往年のピアニストの中では「楽譜に忠実に弾く」という演奏だと言われている。でも正直、現代のピアニストの演奏と比較した場合、ホフマンの演奏は随分とロマンティックな演奏に聴こえる。実際にホフマンの演奏を、楽譜を見ながら聴いたりすると、「楽譜に書いていないこと」を沢山しているようにも感じる。クレシェンドと書いてあるのに、弱音の響きにしたり、単音をオクターブで弾いたり・・・楽譜に忠実?

「PIANO PLAYING」でもホフマンの「テキストを読め」「作曲者の意図を感じろ」「勝手気ままに弾くな」という言葉が沢山出てくる。そしてそれは師、アントン・ルビンシュタインの教えでもあったと。そのようなことを考えれば、ホフマンは楽譜に忠実派であったのだろう。でも現代の感覚からすると彼の演奏は「ロマンティックな時代そのものだよね?」と感じる。

「楽譜に忠実」とか「楽譜を良く読みましょう」のような概念が100年前と現代では大きく変化していったということなのかもしれない。もともとは「段々強く」というように書いてあったら、「そのような効果を演奏者で演出せよ」みたいな意味だったのかもしれない。「ピアノ」=「弱く弾いてね」ではなく、そのような効果を演奏者自身で考えよ・・・みたいな?

時代はザハリヒな方向に進み、様々な研究も同時に進んだ。研究者たちが自筆楽譜を解き明かしたりとか、作曲者自身のプライベートな生活までも明らかになったりとか。当時の楽器はこうだったから、このように弾く・・・とかね。知識としての外壁研究は驚くべき進歩を遂げた。いつのまにか、原点主義というのだろうか、印刷として書かれているもの信仰というのだろうか、「ピアノ」=「弱く弾くことです」みたいな方向の楽譜忠実主義の方向になっていった。

現代のピアノ教育現場では「そこはピアノでしょ?もっと弱くして・・・」のような指導は案外行われていたりするのでは?そのように書いてあるから、そのように弾く・・・みたいな?

なぜ演奏スタイルがザハリヒな方向に進んでいったのか?これは少し考えれば分かることだ。100年前のすべてのピアニストがホフマンではなかった・・・ということだろうと思う。その時代の人々はホフマンやフリードマンのような偉大な演奏と共に、多くの凡庸な演奏も同時に聴いていた。当時は「偉大」とされていた演奏でも、実はそうでもなかった、ただ時流に乗っていた演奏は時の洗礼を受け、現代まで残らなかった。言葉を変えれば、現在聴くことのできる往年のピアニストたちの演奏は、時の洗礼を受けても、生き残った偉大な演奏であるとも言える。でも当時の人は数から言えば、凡庸な演奏を多く聴いていたことになる。「話題のピアニストなんですよ」と。その凡庸な演奏が、実に勝手気まま、楽譜の意図よりも、その場の雰囲気・・・とまでは言い過ぎだとしても、どこか「感情過多」のような演奏だったのではないか?そして聴衆はそのような演奏を聴いて感じる。「こんな気分しだいのような勝手な演奏ではなく、もっとシンプルに偉大な作品そのものを聴きたい」と。「演奏者ではなく作曲者を感じたい」と。

そして演奏スタイルはザハリヒな方向へ・・・

現代の聴衆も、偉大な演奏と凡庸な演奏を同時に聴いていることになる。むろん、「この人は偉大です、この人は凡庸です」なんてカテゴライズはされないから、全員が素晴らしい・・・というスタンスで演奏を聴くことになる。

そして多くの人は感じ始めているのかもしれない。「ただ楽譜に書いてあるようにではなく、もっと内側から発しているような何かを聴きたい」と。100年前とは反対だ。多くの凡庸な演奏を聴くうち、そうではない何かを現代の人も求め始めている・・・

100年前は「演奏者ばかりではなく、作曲者を感じたい」・・・現代では「作曲者ばかりではなく、演奏者も感じたい」という感じだろうか?

100年前、楽譜に忠実とされたホフマンの演奏、これを現代の演奏に慣れた耳で聴いてみる・・・

kaz




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