ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

コンクールと美意識 

 

コンクールというもの、個人的には悪の根源とも思っていないし、生徒に受けさせるべきものとも思っていない。コンクールにも色々ある。激励賞なりを頂ければ、弾いた側、そして教えた側への励みになるだろうし、コンクールという目的があることで日頃の練習以上に頑張れることもある。教室の外の世界を知るという利点もある。教室の大将的存在の生徒が外の世界、つまり現実を知ることはいいことだと思う。でも欠点もあるように思う。それは「こうだとされている」という基準を追ってしまうということ。特にその後の演奏活動というものと直結したようなコンクールだと「参加することに意義がある」なんて甘い考えではどうかとも思うし、やはり「こうすれば勝てる」のような基準をコンテスタントや教師が求めてしまっても仕方ないだろうと思う。もし、コンテスタントに「自分はこう感じる」という明確な美意識が存在し、それがコンクール基準と隔たる場合に問題は起こってくるのではないだろうか?

現在のフィギュアスケートの採点システムは旧採点システムとは異なり、採点基準が、かなり明確になっている。レベルの高い技の方が高得点を稼げるし、達成度によって加点されたり減点されたりする。やはり選手も勝ちたいだろうし、高得点を狙える技、構成、プログラムを考えていくのは自然なことだ。旧採点システムでは、現在のような明確な基準がなかった。ジャッジの気分・・・とは言わないが、お国事情などが微妙に(あからさまに)反映されたりしたものだ。プロトコルを確認するなんてこともできなかったし。このフィギュアスケートの旧採点システムとピアノコンクールの採点とはどこか似ているような気もする。ピアノ演奏ではレベル4とか決められないよね?ぺダリング・レベル2、指のアジリティ・レベル3、加点1・・・とか、できないと思う。

でも明確な「こうあるべき」という基準は存在するので、しかもジャッジ(審査員)によって好みというか、微妙なところは、それぞれだったりもするので、最大公約数的な逸脱感の皆無の演奏が評価されやすい気もする。

いい音楽を聴きたいという純粋なる愛好者からすると、コンクール出身のピアニストは非常に物足りない。どのピアニストも似ているから。この人でなければ聴けない・・・のような魅力に著しく欠ける。コンクールで自分の美意識を貫くのは難しいのかもしれないね。そのようなものを曲げない、大事に思う人は、そもそもコンクールなんて受けないのかもしれない。でもコンクール歴がないと、演奏活動すら始めることができないという現実。でも実際の聴衆は優等生的な整った、時にはバリバリ感満載の演奏を聴きたいわけでもない・・・ここにジレンマがある。

伝統の継承という意味合いにおいて、コンクールというものは意義があるとは思う。クラシック音楽、演奏というものは伝統というものを受け継いでいくものだとも思う。でもそれならば、魅力のあるコンクールピアニストがここまで少なく感じるのは何故だろう?

フィギュアスケートはスポーツ競技。アイスダンスという最も「競技感覚・スポーツ感覚」の少ない種目であっても、やはりスポーツ。採点基準のようなものを各選手が追っていくのは自然なことだろう。

デュシュネー兄妹のスキルは素晴らしいものだ。どんどん順位を上げていく。でもメダルの色が関わってくるような位置になった時、彼らは考えなかったのだろうか?「やりたいスケート、表現したいスケートと多少は異なってもそろそろ順位というもの、成績というものも考えるべきなのでは?我々はアイスショーで滑っているわけではないのだから」と。異端、ワイルド、革命児と評価されていては金メダルは取れないだろう。基準に合わせるべきなのでは?

デュシュネー兄妹は最後まで「こうあるべき」という基準に自分たちを合わせていくことはなかったように思う。観衆は拍手喝采をする。立ちあがって声援してくれる。でもジャッジは???そこは彼らも悩んだのかもしれないが、決して妥協しなかったというか、自分たちの表現を貫いたというか・・・

彼らは1991年の世界選手権でクリモワ&ポノマレンコ組を破り金メダルを獲得している。彼らの演技がジャッジに評価されやすい正統的優美プログラムになったのか?

実は彼らは1990年の世界選手権で銀メダルを獲得している。この時、フリーダンスだけでは1位の成績だったように記憶している。この時のフリーでフィギュア史上初の革命が起こったように思う。デュシュネー兄妹がジャッジの基準に合わせたのではなかった。ジャッジがデュシュネー兄妹に合わせたのだ。基準を変えたのだ。このフリーはトーヴィル&ディーンのクリストファー・ディーンが振付をしている。個人的には、このプログラムは「とてもクリストファー・ディーンしている」ように感じる。当時、イザベルとクリストファー・ディーンはプライベートでの「おつきあい」があり、その後二人は結婚しているので、だから「クリストファー・ディーンしている」ように思うのかもしれない。でもこれは「こうあるべき」という基準に合わせた演技ではない。彼らの演技はずっと基準値というものからしたら異端だった。ジャッジが異端者に合わせたのだ。

ピアノコンクールでは難しいことなのかもしれないね。

kaz




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