ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

演奏は演奏、ソルフェージュはソルフェージュ??? 

 

「私、別にジャズとか興味ないしクラシックのピアノ曲が弾ければいいわ。学校の先生とか保育士になるわけでもないし、移調とか伴奏付けとか、別にできなくても困らないし・・・」

これはよく分かる。僕も声楽の曲やギターの曲をピアノで弾ければ、「便利だな」とは思うが、基本的にはクラシックのピアノ曲を素敵に弾ければ満足なところがある。多くの人がそんな感じなのではないだろうか?3段譜をピアノで弾く、この場合、手は3本ではないわけだから、瞬時(でなくてもいいとは思うが)に端折れる音と入れるべき音を耳で判断していかなくては3段譜は弾けないし、1段譜の場合は、伴奏の構成音を感じなければ弾けないだろうとも思う。

「でも、それは私がやりたいことじゃない。ショパンのソナタが弾けることが夢なの。即興したいわけじゃないの。楽譜は読めるの。指の訓練と練習を重ねればいいんじゃない?」

ここで考えてみる。ショパンのソナタが弾ければ・・・という場合、音符を鍵盤に移せるということができれば満足なのだろうか?最初はそれでも感激だろうとは思う。「わっ、憧れのサウンドを自分で鳴らしているんだわ」みたいな喜びはあろう。でも音にできた段階で、「じゃあ、次はバラードに挑戦だわ」というのも、ちょっと寂しい気はする。「やっと音にできた」ではなく「素敵に弾けた」ということが喜びなのでは?

別に即興名人でなくてもいい。移調名人にならなくてもいい。クラシックの曲を弾きたいからピアノを弾いているのだから。だからこそ、「どう弾くか?」ということを大事に思うべきなのではないだろうか?

視覚的な情報だけで譜読みをし、細部のパッセージ練習を反復し、つまり練習を重ね、音は弾けるようになっていく。この場合、留意すべきことは「細部だけを重視しない」ということだ。なんというか、練習熱心な人ほど、「全体ではなく細部だけにこだわる」という感じがしないでもない。このあたりのことは意外とソルフェージュ能力との関わりがあるのではないかという気もする。

ソルフェージュ能力(一般定義がどのようなものかは分からないが)、クラシックピアノ曲を弾く上で便利・・・というか、皆無だと苦労するのが「楽譜を見て音が鳴るかどうか」なのではないだろうか?楽譜を見て音、和音の変化を感じることができ、さらに偉大な演奏を聴いてきた経験をプラスしていくと、弾く練習をしなくても、頭の中で「自分にとっての理想の演奏」が鳴るのではないだろうか?ひたすら音が弾けるようにし、先生のダメ出しを守り、本番では「練習の時と同じように弾けますように」と思っている人と、自分の理想サウンドを求めて飛翔できる人では、大きな差が出るのではないだろうか?同じショパンの曲を弾くにしても・・・

むろん、頭の中で鳴っているだけでは人には伝わらないから、練習は必要だが、「根性反復練習」と「理想の音を追う」という練習とでは違いはあるだろうと思う。

僕が昔のピアニストを好むので、特にそう思うのかもしれないが、いい演奏というものは「フレッシュ」だと感じる。ショパンの曲を演奏しても、まさに今出来上がったばかり・・・のようなフレッシュな感覚がある。演奏そのものが生き生きとしている。むろん、ショパンを弾いているのだったら、即興しているわけではないから、楽譜を音にしているのは変わらないが、往年の巨匠の演奏は、どこかフレッシュだ。演奏が生きている。まるで即興演奏をしているような自由自在さを感じる。何故、現代のスターピアニストよりもそう感じるのか分からないが・・・

フリードマンの演奏するショパンのエチュード。もう90年以上も昔の演奏だ。

でも、立体的でフレッシュで、今まさに弾いているみたい。音そのものが軽いよね。浮遊感がある。ピアノで遊んでいるみたい。そこが凄い。重量級の感じで「汗エチュード」を弾く人はいくらでもいるが・・・

フリードマン・・・ソルフェージュできたのではないだろうか?彼だけではなく、この時代のピアニストは自ら作曲をし、編曲をするのが普通で、今のような「作る人」「弾く人」という分業制ではなかったからというのもそう感じる理由だ。なによりも演奏からそう感じる。

もしかしたら演奏というものとソルフェージュというものは分離しているものではないのかもしれない。

kaz




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