ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

音大では何を教えているのか? 

 

昔から日本人ピアニスト(コンテスタント)たちの演奏は、とても達者で安定しているけれど、どこか表現意欲に欠けるというか、タイプライターを叩いているみたいというか、そのように言われ続けていたし、今もそう言われている。その理由としては西洋文化と接している歴史の浅さとか、日本人特有の恥じらいとか、はては哲学や宗教がどうのこうのとか・・・そのようなことに起因されているのではなどと言われてきた。そしてやはりこのことも、今でも言われ続けている感がある。

僕自身が日本人なので、「日本人は表現力に欠ける」という意見には素直には納得できないところがある。表現力として結びつかないのかもしれないけれど、日本人にも熱き表現意欲はあるのではないかと感じている。表現意欲を表現力に直結できる何かが欠けている?

海外でピアノを教えているという日本人からコメントやメールを頂くことがある。このような人たちは、現地でのピアノ教育と日本のそれとを比較できる能力があるように思う。どちらがいいとか悪いとか、そのようなことではないとは思うが、そのような人達が共通して指摘するのは「日本の音大の先生は何も教えられないのではないか?」ということだ。むろん、何も教えられないということは、まさかないだろうとも思うが、僕としてもこの点については少し感じることはある。

素人さん(前記事参照)が「作業としてこなしているような演奏」と評した日本人ピアニストのピアソラ演奏・・・

この演奏に限らず、素人さんたちは日本人ピアニスト、優秀な音大生、コンクールで賞を獲得するような人たちの演奏に対して、かなり辛辣のように思う。「何も感じない」「事務処理みたいに弾く」「凄く上手なんだろうけれど」みたいな感想。

日本人にも表現意欲はある。でも意欲を表現力として聴き手に伝える技術に欠ける?

個人的な感想だが、日本人ピアニストの演奏の弱点としてタッチというか、発声というか、発音が「ベシャッ」というか「ベチャッ」というか、どこか曖昧さを感じる。輪郭がぼやけてしまう。これではいくら心を込めて演奏しても、形としては(音楽としては)伝わりきらないのではないか?

発音時の瞬間による「何か」が皆無だと、どうしても音楽というものを「形式」というか、外側からなぞるような方向性で曲を仕上げていく印象を聴き手に与えてしまう。これが惜しい。このことが「何を弾いても同じ」とか「誰が弾いても同じ」のような印象を与えてしまうのではないか?もし日本人が西洋音楽に対して無感動人種なのであれば、それを受け入れてしまうか、そこをどうにかすべきだろうが、心の中に熱きものを持っているのに、それを表出するノウハウに欠けているのであれば、実に惜しいではないか・・・

心が欠けているのではなく、ノウハウを知らない・・・もしそうなのだとしたら、ここの部分が「音大の先生は何をしているのか?」ということと結びつくのかもしれない。

僕には何故かピアニストの友人がいる。アメリカ人なのだが、彼は日本人留学生、コンテスタントたちの演奏を聴いてこう感じるのだそうだ。「彼ら(日本人ピアニスト)は指ではなく腕で弾きすぎる。これだと音色としては単一というか、音の輪郭とか演奏の立体感が表出できない」と。

「瞬間タッチとして際立った演奏を聴いて自分で研究するしかないよね」と彼が推薦してくれたピアニストの中の一人にアントニオ・ピリコーネというピアニストがいる。この人の演奏を聴いて「発音」について自分でも研究してみようかと思う。

でもピリコーネというピアニスト?知ってました?僕だけが知らない?

たしかにピリコーネの発声、発音、この部分は日本人ピアニストからはなかなか聴けない部分だとは思う。

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ

スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top