ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

新しい練習法 

 

別にクラシック音楽だけ限定して聴いているわけでもないけれど、やはりクラシック音楽は日頃鑑賞する音楽の中心とはなる。さらにピアノを習っていて、しかも人前で弾いたりもしていると、ついついクラシック音楽は身近なものと感じてしまう。

日頃クラシック音楽に親しんでいる人の割合は全人口の3パーセントなのだそうだ。「クラシック・・・いいね!」という人は100人のうちで、たった3人ということになる。

「えっ・・・クラシック?う~ん・・・勘弁してほしいな」「ちょっと堅苦しいよね」「僕、そういう高尚なものとは無縁なのでぇ・・・」

この場合、曲が難しい、理解できないということなのだろうか?曲の責任?

かなりの割合で演奏にも責任はないだろうか?

プロの場合、「あと1週間でリサイタルです。でもまだ全然弾けてないの~・・・あっ、チケットまだあります。3000円です」というのも、おかしなことになるので、プロの場合は演奏前の自分の心情のようなものは、あまり書かないのではないかと思う。リサイタル後も「崩壊してしまいました~」などと書くのは、どこか無責任のような気もするし。

アマチュアの場合、練習会とか発表会とか、このあたりは書きたい放題なのではないだろうか?演奏後に反省ばかりしていても無責任ではないしね。

ピアノブログを読んでいて感じることがある。多くの人は「自分の出来栄え」を中心に、「弾けた」とか「弾けなかった」とか、「あの部分がまだ弾けなくて」とか書いている。そこにないものは何だろう?

「人はどのように感じてくれたのだろうか?」という視点(聴点?)がない。このあたりに97パーセントの人がクラシック音楽を敬遠する理由が潜んでいるのかもしれない。あまりにも「どう弾けるか、弾けたか、あるいは弾けなかったか」ということに演奏者が執着しすぎてしまう?

ピアノを人前で暗譜で演奏するって、それはそれは大変なことなので、それを実行したということだけでも凄いことなのだと思うし、「弾ければいいの」という考え方もあるのだと思うけれど、もし自分の心の中に「なんでただ弾いているだけになってしまうのかしら?」とか「何故あの人は訴えるような豊かな演奏ができるのかしら?」のようなものがあるのだったら、聴き手のことを意識した練習などもしてみたらどうだろう?自分出来栄えだけではなく・・・

あそこのパッセージ、あの跳躍、ああ、あそこの部分の暗譜が・・・のようなことばかり意識するのではなく、少しだけ聴き手のことを意識してみる。

「私の演奏、聴いていた人がもう一度聴きたい、いつまでも聴いていたいと感じてくれるかしら?」

今日の練習、パッセージの練習が終わったら、自分の演奏を聴き手として聴いてみたらどうだろう?

kaz




にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: ピアチェーレ

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top