ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

セミナー 

 

ピアノ教育と介護の世界とでは似ている部分も多いように思う。理想と現実とのギャップのようなものが現場では存在しているのではないだろうか?どちらの現場でも「私・・・困っています」という教師や介護職員が多いということだろう。どちらの世界もセミナーが非常に盛んであるという印象を持つ。困っている人が救いを求める場になっているのでは?

どちらも閉鎖性のある職場であるということが共通している。自分一人で教室で教える。介護職員も自分の施設のことしか知らない。「他の先生はどうやっているのだろう?」「他の施設ではこのような問題はないのだろうか?」

なのでセミナー・・・なのだろう。セミナーに集う仲間、やはり同じようなことで悩んでいる。「自分一人ではないんだ!」この感覚を得ることはとても有意義なことだ。しかしセミナーというものは、元々そういうものなのかもしれないが、多くの場合、成功した人の実践例を拝聴することになりがちだ。無駄では決してないし、ノウハウも大事なことだから、そのノウハウを得ることで、成功することもあるだろうと思う。でもセミナーの講師と自分は同じ人間ではない。あなたの生徒はあなたの導きを必要としているし、あなたの施設にいる高齢者は、あなたの介護を必要としている。講師の実践がそのまま、あなたの現場で通用するわけでもないのだ。

「そうなのよね、だから沢山セミナーに通うの!」

危険なのは、セミナー巡礼をすることで、自分は真摯に取り組んでいると思い込んでしまうことだ。自分を高めているという錯覚・・・

「筋力の低下を防ぐために歩行訓練をしましょう」セミナーで教えられる。そして自分の現場でもやってみる。「寝たきりではいけないわ。職員の介助があれば短距離だったら歩けるじゃない?セミナーは役立ったのね!」

そうとも言えるし、まだこの職員は本質をつかんでいないとも言える。「えっ、でも筋力低下防止に歩くことはいいことでしょ?」「私は他の業務を手早くこなして、この人の歩行のお手伝いをしているの。ケアプランにも午後にフロア2周の歩行・・・って書いてあるじゃない?」「セミナーで教えられたことを実践しているのよ!」

セミナーに精神的に依存しすぎると、自分を見つめなくなる傾向がある。少なくとも、介護職員はそうなりがちだ。「A先生はこう言っていた」「B先生の実践をお手本に・・・」

冴えない表情で、でもおとなしく職員の手にひかれて歩く高齢者。「私はこれでいいんだろうか?」介護職員は、ふと疑問を抱く。自分を見つめ始めたのだ。「私だったら目的もないのに歩くの・・・イヤだな・・・」ここに気づく。

「この人は若い頃、何が好きだったのだろう?」調べてみる。家族にも訊いてみる。「母は生け花が好きでした。花が好きでした」

「春になったら花を見に行こうかな?公園の花畑の中を歩かせてあげようかな?」

介護職員は気づいたのだ。「歩くことがこの人の生活なのではない。好きなことをするために歩くのではないか?」と。

この若い介護職員は1年後、ずっとベット上で、オムツの中で排泄をしていた人を、トイレの中で排泄させることに成功している。その高齢者にとっては実に3年ぶりのトイレでの排泄だ。その高齢者も泣いた。職員も泣いた・・・

「良かったね、歩く練習をしてトイレに行けたね?」「そうね・・・」

介護職員は現場で困った。だからセミナーに通った。そして実践し、自分は自分なのだと悟った。自分がやるのだと。セミナーの講師が自分が関わる高齢者の介護をするわけではないのだ。自分なのだ・・・と。

高齢者の人生の最後の一幕。ここをどう過ごしてもらうか?そこに直接関わるのが自分たち介護職員なのだと気づいたのだ。作業をする歯車ではないんだ。人の人生に関わっているんだ・・・

介護職員は自分を見つめた。自分で考えた。だからこそセミナーでの知識が役立ったのだ。

kaz


にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top