ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

演奏と方向性 

 

人前で演奏するには、ある程度時間をかけた方がいい。これは常識だろう。僕もそう思う。明日の練習会では、あえてその常識を破る。好き好んで破るわけでもないが・・・

明日弾く曲は、弾き始めて1週間。本来はそんなことをしたらいけないよね。僕もそう思う。でもこれは実験でもあるのだ。実験をしなければならない個人的な理由は前回書いた。

1週間前、心に誓ったことがある。明日弾く曲は、遊び弾き、浮気弾き(練習する必要もない曲をついつい弾いてしまうこと)に徹しようと。この1週間、練習できる時は、基本的に来月ピアチェーレで弾く曲を練習した。明日弾く曲はあくまでも遊び弾き、浮気弾き。決して本気で練習しないこと。その状態であえて人前で弾く。

明日は緊張はしないだろうと思う。また、本番までへの仕上げ方というか、持って行き方がいつもとは全く異なる。完全にラフな感じだ。明日、音が聴こえなくなるなんてことがなければ、自分の弾いている音が聴こえなくなるのは、完全に心理的な問題だということになる。光が見えるのだ。

個人的特殊事情は別としても、一般的に、いい演奏をするには、ひたすら練習に励むしかないと思われているのではないだろうか?本番で失敗したのは練習不足。演奏が不安定になったのは練習不足・・・

「そうよ・・・もうこれ以上できないというほど練習すれば、私はこれだけ努力したという心の支えになるわ・・・」

それでも失敗する時ってあったりする。そうなると自分を否定してしまうこともある。「私ってだめなんだわ・・・」

それでも練習を重ねれば、ひたすら練習を重ねれば、いつかフッと抜ける感じがして、自分の思い通りに弾けるのだろうか?

とにかく練習、ひたすら練習・・・

さあ、自分の番・・・その時に何を思っているだろうか?「あそこの部分が上手くいきますように」「せめて大崩壊はしませんように」

このような心理状態で弾くことが多いのではないだろうか?練習をすればするほど、本番でそのように感じてしまうなんて何かおかしい・・・とも思うし、何かが欠けているようにも思う。

そこには、ピアノとあなたしか存在していない。「どれだけ弾けるだろう?」というのは、個人的な問題だ。残念ながら、というか幸いなことにというか、聴いている人は実はそんなことはどうでもいいのだ。パッセージの到達度を聴きたいわけでもないのだ。

演奏者が弾きながら、「次さえ無事通過すれば・・・」とか「ああ・・・なんでまたやっちゃったんだろう・・・」なんて思っているとしたら、その演奏は少なくとも「方向性」はない。ピアノと演奏者だけが格闘しているような?聴き手に向かってくるような「何か」が欠ける。

「あっ・・・いい演奏だな」と人の演奏で感じる時、その演奏は聴いている自分に何かが向かってくるような感じがしないだろうか?その演奏には方向性があるのだ。「私ったらどうしましょう」と思いながら弾いていたら、それは望めないような気がする。

「ああ・・・無事に弾けた」ホッとはするかもしれないが、方向性は存在したのだろうか?

もしかしたら「自分の出来栄え」なんてどうでもいいのかもしれない。いい演奏をする・・・これは実は目的ではなく、ある目的のための手段なのかもしれなかったら?

「私は演奏するために演奏するのではない」サンソン・フランソワの言葉だ。演奏は目的?手段?

練習を重ねる。それはいい演奏というか、自分が思っているように演奏するための手段だ。ではいい演奏って目的?手段かもしれない。では目的は?

過去にもこの人の演奏は紹介したように思う。この人の演奏には方向性がある。強烈なまでの方向性。

このように弾けるようになるためには、練習しなければならない。それはそうだと思う。でも練習さえすれば、いつかはこのような方向性のある演奏ができるのだろうか?

「ピアノの練習をする?う~ん・・・ピアノで音楽をするではないかな?」アルトゥール・シュナーベル

kaz




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