ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

きょうはチャリティー・コンサートだ! 

 

ピアノ教師が人前で演奏するのを引退してしまう理由の一つに「本番の怖さ」があるのではないかな?現役(?)の頃は、「緊張するし、いや~ん・・・」というわけにもいかず、弾いてきた。子どもの頃だってそうだったろう。でも卒業してしまえば、そのあたりは自由になる。自己選択になるというかね。「いいえ、ピアノ教師だって弾くわ。今年の発表会はディズニーメドレーを連弾したもの・・・」う~ん・・・

人前演奏で最も怖いのは、やはり「暗譜」ではないだろうか?つまり無限ループになったらとか、頭が真っ白になったらどうしようとか、そのあたりが怖い。生徒にとっては、それが「きつつきコンコン」とか「子ぎつねコンコン」のような曲であっても精一杯の曲を発表会では弾くのだ。普通、発表会では日頃のレッスンで弾いている曲より少しだけ背伸びした曲を弾く場合が多いだろう。生徒は大変なのだ。でも小学生でも弾いて帰ってくるわけだ。「舞台で何があっても自分でなんとかしてくるのよ・・・」というものを生徒にだけ課し、自分は逃げてしまう(ように外部からは見えるのね)のはどこか違うんだな・・・などと思う。生徒に本番、暗譜の厳しさを課しておいて自分はそれをしないというのは違うと思う。僕が厳しすぎるのかな?

本番、舞台の怖さを感じるのはピアノ教師だけではない。アマチュアだってそうだ。みんなそうだ。本番当日、まず思うのはどんなことだろう?「無事に弾けますように」とか「失敗しませんように」とか、ただひたすら「ああ・・・どうしましょう・・・」だったりするのではないだろうか?

人前演奏当日、本番で最も難しいのが、演奏者の内情(失敗しませんように!)と聴衆の望んでいるものとのギャップが生じることではないかと思う。演奏者が本番当日思う、願うこと(失敗しませんように!)は、実は聴き手にとってはどうでもいいことなのだ。聴き手は演奏の出来映えを評価するためにそこにいるわけでもないし、したいわけでもない。聴き手は演奏者がピアノと格闘するのを見物したいわけでもないのだ。「聴き手は何を望んでいるのかしら?私は与えられた時間、何をすればいいのかしら?」という観点で自分の本番を考えてみたらどうだろう?自分が演奏者ではなく、聴き手だったら何を望むだろう?それを考えてみる。「もしかしたらミスタッチなんてどうでもいいのでは?」みたいなことが見えてくるかもしれない。

ねじり鉢巻きでピアノの練習をしてきた。「こんなに頑張ってきたのだもの・・・」でも聴き手はその頑張りなんて聴きたいわけでもなかったとしたら?

「ピアノを練習する?ちょっと違いますね。ピアノで音楽をする・・・では?」(アルトゥール・シュナーベル)

「ピアノを弾く?ああ・・・なんて恐ろしいことを。ピアノで遊ぶ・・・では?」(サンソン・フランソワ)

本番で最も大切なのは「日頃の成果の発表」ではなかったとしたら?

本番当日の朝、こんなことを書いている自分は相当変わり者だな。

ナイジェル・ケネディの本番。練習を積み重ねてきたのだろう。それはナイジェルだけではなく誰でもそうだ。ナイジェルは舞台が怖くはないのだろうか?そんなことはないだろう。同じ人間なのだから。でもはっきりしていることがある。それは聴衆を放置していないということだ。

kaz



にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ
にほんブログ村


ピアノ ブログランキングへ
スポンサーサイト

category: 未分類

tb: --   cm: 0

△top

コメント

 

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top