ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

天国への扉 

 

アグスティン・バリオスはサン・ファン・バウティスタという街で生まれた。首都のアスンシオンはともかく、日本人が観光で訪れるような街ではないような?一応パラグアイのミシオネス県というところの県庁所在地ではあるのだ。

「えっ?ここ?」

なんだか道中、ひたすら平原・・・とか、ひたすらジャングル・・・のような景色ばかりだったので、「本当に街はあるのか?」と心配になる頃、ある村・・・というか集落に着いた。

「ここみたいだね?」「えっ?ここ?」

一応、カフェもある。「えっ?ここの人口?そうねぇ・・・一万人ぐらいかしらぁ?」とカフェの人は言う。

バリオスが首都アスンシオンを目指したのも分かる気がした。アスンシオンでギターを学びながら、さらに大きな世界をバリオスが憧れたのも分かる気がした。バリオスは多くの国を渡り歩いた。流浪の人であったのだ。最も長く暮らしたのはブラジルだ。ヨーロッパにも一度滞在しているが、生涯のほとんどを中南米で過ごした。パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ・・・

晩年は中米のエルサルバドルでギターを教えながら静かに暮らしていたらしい。流浪の人ゆえ、何の名誉もまとわずに、静かにこの世を去ったのだ。

「僕は中世の吟遊詩人の兄弟だ。栄光と絶望の中でロマンティックな熱情に苦しんだ吟遊詩人の兄弟なのだ」  アグスティン・バリオス

流浪の人であるからこそ、故郷パラグアイ、自身がパラグアイ人であることに誇りを持っていた。バリオスはパラグアイの多くの人がそうであるように、先住民グァラニー族の血を受け継いでいる。そのことにも誇りを感じていた。バリオスは、自分の名前をアグスティン・バリオス・マンゴレと名乗るようになった。「マンゴレ」とはグァラニー族の伝説の酋長の名前なのだそうだ。

少年バリオスが歩いたであろう道を歩く。見たであろう風景を見る。当時とそう変わらない風景がサン・ファン・バウティスタという街には残っている。どこか取り残された街なのかもしれない。

「どうして一片の空で満足してしまうの?」・・・この想いは島国日本に住む僕も抱いていた感情だ。もっと大きな空が、大きな世界があるに違いない・・・そう想っていたし、自分の人生を振り返ってみると、実際にそうであったとも思う。

アグスティン・バリオス・マンゴレの遺作が「最後のトレモロ」という曲だ。この曲を書いた時には、バリオスの健康状態も相当悪かったらしい。バリオスの家に毎日のように訪れてくる物乞いの老婆がいた。この老婆はいつもいつも同じ言葉をバリオスに囁いた。

「Una limosna por el amor de Dios」

「神様の愛情に免じて、どうかお恵みを・・・」

老婆の口調が最後の曲に結びついた。それが「最後のトレモロ」という曲になった。

バリオスは「最後のトレモロ」を書くことによって、自らも役目も終えたのだ。そして天国の扉を叩いたのだ。

kaz



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