ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

なぜバッハをショパンのように弾いてはいけないのか? 

 

グレン・グールドは聴衆と共に演奏会場で音楽を共有することなく、レコーディングというものに固執していった理由として、彼自身が聴衆というものを意識した時に、そのことが演奏そのものの在り方に微妙に反映してしまい、それが真からの自分の音楽ではない時もあった、それを回避したかったので聴衆不在のレコーディングという形態に固執したと語っていた。活動初期の頃はグールドも普通に演奏会をしていたので、そうなのであろう。

グールドのバッハは非常にチェンバロ的な演奏などと言われる。たしかに、ペダルを駆使し、豊潤な響きの中にクリアな音が浮きだってくる・・・というような、現代のピアノの性能の全てを駆使したロマンティックな方向のバッハではないような気はする。響きの中で・・・というよりは、音の立ちあがりで勝負というか・・・

でもチェンバロというよりは、個人的には非常に現代のモダンピアノを意識した演奏だと感じる。グールドの演奏、特に瞬間的なタッチの使い分けは尋常ではないほどのものがあったので、彼の意図を具現化するには、限定されたピアノだけが可能だったように思う。具体的には、おそらくグールドの好みに調整されたであろうニューヨーク製のスタインウェイ。このピアノの多様性を追い求めた。なので、僕はグールドはピアノ的だな・・・などと思う。

おそらく、グールドは、毎回異なる響きの会場で、今日はスタインウェイ、明日はヤマハ・・・などという普通のピアニストのような活動は耐えられなかったのではないかとも想像する。

グールドのようなバッハも好きだが、最近の演奏ではガヴリーロフのようなロマン的バッハも好きだ。僕としては両方ありなのだ。どちらも素晴らしいと感じる。どちらかの方向性だけが好きでも、それはその人の嗜好なので、僕はいいと思う、両方のありかたが存在していい。でもピアノ教育の現場では、そのような個人の嗜好を飛び越えた指導やアドバイスもあるのではないかと感じる。

「もっとバロック的な感じで弾けるといいわね」とか「ロマン派ならそれでもいいんだけど、これはバッハだから・・・」のような指導。どこか「バッハ、あるいはバロックとはこのようなもの」という何かが指導者側にあるのではないかと思う。

おそらく、様式感というものなのだろう。バッハをショパンのように弾いてはいけない・・・のような?あるいは、指導者が学生時代、子ども時代に受けたレッスンでのバッハというものを、無批判に継承させようとしている?

生徒がこのように質問したとしたら?「私・・・ガヴリーロフの平均律に感動しました。とても綺麗で素敵だと思いました。そのように弾いてみたいのですが、ダメなんですか?」と。

「バッハなんだから・・・」では答えにはなっていないだろう。そもそもバッハ(バロック期)の演奏ほど演奏者の個性というか、ピアニストによって様々なものもないのでは?

様式感というものと基本的な奏法の欠陥というものとの混同があるように思う。なのでバッハ問題は学習者にとって釈然としないものが残るのだ。

バロック期の曲よりは、ロマン派の曲のほうが、「なんとなく」というレベルではさまになりやすい。ピアノという楽器がロマン派という時代に花開いたわけだから、ロマン派の作品群はピアノという楽器に近づいてきてくれるようなところがある。大雑把で未熟な演奏でもなんとかなりやすい・・・みたいな?ところがバロック期の作品では演奏者側の未熟なものが、なんとも露出しやすいのではなかろうか?特にタッチの敏捷さとか感覚が大雑把であると・・・

ロマン派や近現代の作品でもタッチが大雑把だと、ぼやけた演奏になる。音が多くなるとカオス状態になる。でもバロックや古典派の作品よりは、恰好はつきやすいという欠点(利点???)はたしかにあるように思う。それではいけないのだ。いけないのだが、助長してしまっているものがあるように思う。

一昔前までの日本人バッハは、ノンレガートでポツポツ、コツコツしたバッハが多かったように思う。禁欲的とでもいうのだろうか?このような演奏は「表現力不足」と世界から評されることが多かったのだろう。

最近のコンクールでの演奏を聴くと、これは大人も子どももだが、権威のあるコンクールになればなるほど、あるものが存在してくるように(聴き手感覚としては)思う。それは「表現力不足恐怖症」「無味乾燥恐怖症」「歌わなければ症候群」みたいなもの。

やたら大袈裟な身振りで弾く人が増えた。天井を見上げ恍惚表情で弾いたり、ダンス弾きしたり、いわゆる「入魂しているのですぅ・・・」演奏。このような演奏は、大袈裟なビジュアルなものと、実際の響きとで大いなる差がある場合がほとんどなので、聴いているほうは哀しくなってきてしまう。

入魂・恍惚演奏が主流になると同時に、バッハの演奏も随分とロマンティックなものが増えたように思う。おそらく、ロマンティックというか、厚化粧をしたほうが、なんとなくレベルで恰好がつきやすいのではあるまいか?でもこの種の演奏とガヴリーロフの演奏を同じように語ることはできないであろう。純然なる方向性というものと、表現不足ごまかし、というか基本的奏法欠陥隠しのような演奏では、一見(一聴?)同じような「ロマン的」演奏でも、大きな隔たりがある。全くことなる種類の演奏だ。このあたりを混同していないだろうか?

様式感欠如というもの、そのような演奏、むろん具現化する能力があるのに、方向性を誤ったという演奏もあろう。でも実際には様式感うんぬんの前に基本的な奏法というものを考えていく必要があるように思う。打鍵スピードが一定すぎていて、コントロール概念に欠けていると、演奏は大雑把になりやすい。一応、曲とか時代様式は弾き分けようと努力しているのかもしれないが、聴いている方は、「どの曲も同じように演奏している」という感想になる。響きがすべて同じなんだもん・・・聴いている方は辛いものがある。

「ロマン派ならそれでいいけれど、これはバッハだから・・・」

どのような意図で出る言葉か・・・そこが重要だ。

kaz

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