ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

パフォーマンス 

 

9月に、あるチャリティー・コンサートに出演する。小さな曲を5分程度弾くだけなのだが、チャリティーということなので、有料の演奏会となる。コンサートの収益の一部でも自分に入るということであれば、僕はプロの演奏家ではないのだから、それはいけないな・・・などと思うけれど、出演者は参加費を払い、コンサートの収益は、すべて寄付に回るので、出演者としての実感はピアチェーレの無料の演奏会とあまり変わらない。ただ、お金を払って聴きに来た人が会場にはいるわけで、そこのところをどのように出演者は判断するかだろうと思う。

個人的には、会場で聴いている聴衆が、イコール出演者でない場合、たとえばピアノ教室の発表会のような聴衆=関係者のような場ではない時には、聴き手は、わざわざ時間を空けて会場まで足を運んでいるわけだから、演奏者としては、ある種の責任が生じるとは思う。無料だろうが、有料だろうが、そこは変わらないような気がする。人様の時間を頂いて自分が演奏するわけだから・・・

アマチュアの場合は特にそうなのかもしれないが、どうしても人前での演奏とか本番というものを、日頃の練習の成果を問う場・・・として捉えてしまうことに慣れてしまっている。発表会とかサークルの練習会とか。そのような時って、「どれだけ練習の成果が出せたか」とか「失敗しなかったか」とか、演奏の表面的な出来栄えにのみ捉われてしまう。

「崩壊寸前だった・・・もっと練習しなければ!」「まぁ、弾けたのではないかと・・・」

このような感想は、すべて自分にとって・・・の感想だ。聴き手は?聴いていた人はどう感じたのだろう?

「心を込めて演奏させて頂きます!」これも自分の勝手な思いなわけで、やはり「あなたは心を込めた満足感があるでしょうが、でも聴き手は?」のような問題が残る。

つまり演奏者がどう・・・ではなく、聴き手がどう・・・ということ。

聴衆は、演奏者のピアノライフのお飾り、アクセサリーではないのだ。

「そんなぁ・・・プロじゃないんだしぃ・・・」

むろん、一生懸命練習しなければいけないし、本番でも投げやりな気持ちで弾くよりは、心を込めた方がいいだろうとも思うが、それだけではなく、その演奏を「パフォーマンス」として考えてみたらどうだろう?練習成果の披露・・・という自分だけの範囲ではなく、聴き手が存在しているわけだから、聴き手のテンションを集める義務を感じ、時間や音、空間を共有し、聴き手との一体感までを視野に入れる。

「ピアノの演奏」とか「曲を弾きこなす」とだけ思わずに、「自分は○分間のパフォーマンスをするのだ」と最低限感じてみる・・・

演奏直後の自己反省は「ああ、上手く弾けなかった」とか「まぁ、なんとか・・・」ではなく、「今のパフォーマンスで何かが伝わっただろうか?」になる・・・

「そんなこと・・・プロじゃないんだし、プロ級の腕前になるまで、そんな風に思えない。」これは僕も思う。でもこうも思う。

「人に伝える・・・そんなレベルになったら考えよう」では人間はそのようなレベルになる前に死んでしまう。そんなレベル・・・なんてないのかも?やるか、やらないか・・・だけかも?

多くの人は死の直前に後悔することがある。それは「失敗したこと」ではない。「やらなかったこと」を後悔する。

kaz



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