ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

誘導と内在 

 

僕が幼い頃、音楽的に大きな影響を受けたと考えられる二つの要因に、赤ん坊の時から、かなりの期間、「流し」をしていた叔父に預かれていたということがまずあると思う。もう一つは、小学生の時に音楽に詳しい医大生と知り合い、多くのクラシック音楽、偉大な演奏を紹介してもらったこと。この二つは現在の僕を形づくっていると自分自身では思っている。

叔父は流しだったから、もちろんギター片手に飲み屋で演歌などを歌うこともあったのだが、彼はクルーナー唱法の歌手だったので、演歌というよりは、ムード歌謡の方を得意としていて、飲み屋というよりは当時全盛だったキャバレーのようなところで歌うことが多かったみたいだ。日中は仕事がなかったので、僕は夕方まで叔父と過ごしていたわけだ。どこかに連れて行ってくれたりとか、一緒に子ども向けの童謡を歌ったりとか、そのようなことは一切なかったように思う。叔父は僕がいても、洋楽や歌謡曲を歌い、レコードを聴いていたのだ。僕も泣いたりせず、記憶はないながらも、おとなしく熱心に聴いていたらしい。

具体的な記憶はあまりないのだ。叔父の膝の上で彼の声を聴き、傍でギターの音色を聴いていた感覚はあるが、具体的な曲名とか、そのような記憶はない。

叔父は若くして癌で亡くなったので、僕は後年、叔父のレコードと日記を譲り受けた。その日記には叔父の心の感情などは綴っていなかったけれど、かなり細かく、聴いた曲、練習した曲、舞台で歌った曲などが記されている。日記というよりは、記録のようなものだが、その記録の日記には僕が預けられた日にはそのように記録されていたので、具体的な記憶は僕自身はなかったけれど、当時、どのような曲を聴いて育ったのかが今も分かるのだ。

一つの傾向があると思う。それは叔父の声もそうだったのだと思うのだが、非常に感傷的、かつソフトな感覚のものを叔父は好んだということだ。その影響を僕は受けたのだと思う。叔父の歌や、つま弾くギターの音色、そして彼が好んで聴いていたレコードを僕は吸収していったのだと思う。感覚的なことも吸収したが、音楽的能力のようなもの、実際には能力とも呼べない小さなものだが、僕は叔父から学んだのだと思う。一つは音楽には抑揚があるということ、頂点に向かい感情が高まり、収まる・・・そのくり返しにより、空気の振動が演奏者以外に伝わるという演奏の基本のような感覚、これを叔父から吸収したのだと思う。無意識にね。

僕は幼稚園で、いきなりピアノで即興演奏をして周囲を驚かせたことがあるのだそうだ。僕自身は記憶にはない。でも僕は叔父のギター演奏を聴いていたし、幼稚園で保母さん(先生?)が歌の伴奏でピアノを弾くのも見ていた。音楽の動きと鍵盤の成り立ちのようなものは、把握していたのだと思う。「あっ、鍵盤を上に移動していけば音はそうなっていくのね?」みたいな。

頭の中の音楽をそのまま自然に鍵盤に移したのだ。ただそれだけのことだ。頭の中の音楽は叔父から吸収したものだった。それは子ども用の歌ではなかった。どこかシャンソン風でもあったらしい・・・

これは、もしかしたらソルフェージュ能力ということと関係があるのかもしれない。たしかに、読譜をして音符(楽譜ではない)を鍵盤に移していき、なんとなく止まらないで弾けるようになったら、なんとなく表情らしきものをつけて、はい合格・・・みたいな今までの(?)ピアノレッスンはもうどこか行き詰ってしまっているだろうと思う。でも、今でもピアノ導入での大きな課題ではあるような気はしている。

僕が叔父から吸収したもので最も重要なものは、ソルフェージュ能力とかそのようなことではなく、子どもなりの感情の発露と自己の演奏というものを、幼児の時から自覚していたということだ。演奏、これは実際には音で、鍵盤で遊ぶということだったと思うが、このような行為は音符→音という手順ではなかった。心の中の強烈な動き、何かを鍵盤で表出するという行為だった。僕の場合、初めからそうだったのだ。これは叔父から授かった財産だと思っている。

感情の発露と演奏、実はこの部分は教えたり、教わったりというのが難しい部分なのかもしれない。

ピアノのレッスンに限らずだと思うが、子どもを教える、子どもに何かを伝える場合、そこに意図はなくても、「大人の誘導」というものが入ってくる可能性がある。たとえば道徳の授業。「イジメ」に関する授業を行い、生徒からの感想文を読んだとする。その感想文には「イジメはいけないと思いました」とか「イジメは弱い人がすることだと思います」「絶対にイジメは許せません」と書いてあったとする。この場合、教師は「あっ、自分のクラスにはイジメはないのね」と思うだろうか?そうだとしたら楽観的というか、相当おめでたい教師だろう。子どもは大人の誘導に敏感なのだ。「このように書くべきなんだな・・・」ということを書いたりするのだ。ピアノのレッスンでも同じではないだろうか?なんとなく弾いてきた生徒がいるとする。一応弾いてはいる。指導者は表情の変化が乏しいと感じるはずだ。そしてこう言う。「Aくん、とてもよく弾けたね、練習したんだね?でも先生はこの部分が気になったんだな、ここ、今までと違う感じがしない?Aくんはどう思う?この部分はそれまでと違う感じがするかな?」「すると思う」「どんな感じだろう?」「えっと・・・なんとなく悲しい感じ・・・かな?」「そうだね!よく気づいたね。じゃあ、今度は少し悲しい感じで弾いてみたらどう?」

そしてAくんは弾く。一応悲しい感じで。でもこの場合、Aくんが心からの発露で悲しさを表現したのではない可能性もある。指導者が期待した答えを察知して悲しい感じと答えた。そしてAくんなりに、控えめ表現で悲しさを演ずる・・・

この場合は「よく弾けたね」と喜んでもいられないのではないかと思う。もしかしたら指導者の誘導、それは無意識の誘導かもしれないが、それに合わせただけなのだから・・・。これは子どもの得意分野でもあると言える。

子どもなりの発露、これと芸術作品、それがシンプルなものであろうと、そこに真の一致を目指していくのが本当のピアノレッスンではないか・・・

迷子になってしまった子ども、必死に母親を探す。「ママ・・・ママ・・・」この時の子どもの心は、本物だ。「何処にいたの?探したじゃない!」「ママ~」と母親の胸に飛び込んでいく。この時の感情は本物で、本物の発露なのだ。この発露と音楽作品から受ける感情とを一致させ、同様なる発露表現につなげていく、その具体的情報を伝えていくということが本来のピアノレッスンなのではないかと僕は思う。現実には「誘導」を「表現を教えた」と勘違いしている指導者も多かろうと思う。

僕自身、素晴らしい演奏と自分が感じる場合には、演奏技能の闊達さとかそのようなことではなく、もともと自分に内在していた何かとの一致のあった演奏を素晴らしいと感じたりする。自分に内在している何かは流しの叔父がまず僕に教えてくれたのだと思う。

このギター演奏、個人的にとても好きな演奏だ。「叔父のギターみたいだ・・・」と思う。それは叔父の演奏そものではなく、かつて僕が叔父のギターを聴いて僕の内部に蓄積された何か、説明できない、その「何か」との一致がこのギター演奏にはあるように思う。だから僕はこの演奏を「好きだ・・・」と思う。僕の心が、内在する何かが反応するのだ。

リアルに僕の演奏を知る人、聴いたことのある人は、このギター演奏と僕の演奏とで、どこか似ていると感じるかもしれない。そうだとしたら僕はピアノを弾いていて良かったと思う。

kaz



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