ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

循環 

 

本番前の心境、そりゃあ落ち着かないものだ。心配というか憂鬱というか、でも「じゃあ人前演奏は封印」とはならないところが不思議ではある。僕は本番大好き人間でも、人に注目されるのが好きなお祭り男でもないし、「苦しめてあげる」「うふん・・・快感」という嗜好の持ち主でもないと思うので、普通に苦しさのようなものを感じている。でも人前での演奏、つまり本番というものと、純粋にピアノを弾くということとは、根底動機としては、どこかつながっているようにも思う。

「楽しい?」「いや・・・」「ワクワク?」「いや・・・」

でも弾きたい・・・みたいな。

本番特有の苦しさには二つの理由があるように思う。一つは「無様に失敗したくない」という気持ちが強くなること。これは自己顕示欲のようなものの裏返しなのかもしれない。「どうでもいいわぁ・・・」と思っていれば緊張さえしないだろうから。

もう一つの理由は、本番前(でなくてもだが・・・)は練習頻度がどうしても高くなる。「あそこはこうして・・・」「この指はこうして腕はああして・・・」とか頭の中に「事前計画予定」のような回路ができあがる。「こうすれば、ここを注意すれば~なるので・・・」みたいな。どうしても、本番でもそれを「なぞろうとしてしまう」のではないかと思う。本番前は、事前計画の無事施行というものが目的となりやすいのでは?

当然、それは叶えられない目的であるから、本番の感想としては、「ああ・・・まだまだ未熟で」とか「練習が足りないと思いました」「真っ白になって焦ってしまい」あるいは「崩壊してしまいましたぁ・・・」のような感想ばかりとなる。アマチュアの本番感想記には圧倒的に「至りませんでしたぁ・・・」的なものが多いように思う。本心なのだろうし、それは大切な心掛けだとも思うが、本番では練習と全く同じように弾くということが、目的の中にあったり、あるいは前提になったりしていないだろうか?これって聴いている側としたら、あまり関係ないことだったりする。隣のキーを弾いてしまおうが、パッセージが崩れようが、聴いている側があまり気にしないものだ。人の演奏を聴いていてもそう思うでしょ?なぜ自分の演奏の時だけは特殊な出来栄えのようなものが気になってしまうのだろうね。

とは言え、僕も本番前日に思うことは事前計画を全うできるかどうかということばかりだが・・・

うまく循環させることができればいいなと思う。曲に恋して、弾きたいと思った瞬間の気持ち、この時に曲や聴いた演奏のどこに惹かれたのだろう?それらのものが自分の何に触れたのだろう?その部分と練習そのものと、本番というものが上手く循環し、完全なサークルになればいいのに・・・と思う。

僕の場合は、曲の何かを感じ、曲を表現というよりは、自分の感情を曲が代弁してくれているような感覚を持つ。おそらく多くの人は逆の感覚なのかもしれないが・・・。自分の奥底にあるドロドロ(?)したものを曲が代弁してくれているので、そこを出したくなる。ナルシスト入っているだろうか?でもそんな感覚だ。

最近の僕の気持ちを代弁してくれている曲・・・というか演奏がこれ。

これはリヒャルト・シュトラウスの歌曲、「子守歌」をピアニストのフレデリック・マインダースが編曲し、演奏しているもの。原曲の歌曲そのものが世紀末美というか官能美を感じさせる曲だが編曲も見事だと思うし、演奏も好きだ。この「天に召されていく」みたいな感じが好き。

「子守歌」はデーメルの詩で、リヒャルト・シュトラウスはデーメルの詩の世界と自分の世界の一致を感じたのかもしれない。結構、デーメルの詩に曲を書いている気もする。子守歌にしては官能的な詩ではないかと個人的には思う。

夢を見て・・・
天国の夢。花が沢山咲いていて、花は輝いて、そして揺れている。
歌を聴いて・・・あなたのおかあさんの歌を・・・

夢を見て・・・
あの日の夢。花が咲き誇ったあの日の朝のことを。
あなたの小さな魂がこの世に現れた日のことを・・・

夢を見て・・・
静かで、素晴らしかったあの夜の夢。
あなたのパパの愛が開き、この世を天国にしてくれたあの夜のことを・・・


たった一度でいいから循環させてみたい。作品と演奏、演奏と空気、空気から聴いている人へ、そして聴いている人から自分、自分から作品へ・・・



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