ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

正直な演奏を正直に聴く 

 

子どもが癌(に限らずだが)で死にゆく時、大人と同じような道を歩んでいくことが多い。自分にとっての「人生のやり残し」を意識し、そして「愛」というものを意識する。それらのことをやり遂げた時に、喜びと幸福感を感じながら死んでいくのだ。「子どもなのだから・・・」という特別要素は何もない。大人と同じだ。

ジェレミー君は8歳。小児癌の末期で、化学療法もやり尽くした。

「パパ、ママ、家に帰りたい・・・やりたいことがあるんだ・・・」

ジェレミー君の「やり残し」は自転車に乗ることだった。病気との闘いの、短い人生だったので、自転車に乗るという体験をせずにきたのだ。「自転車に乗りたいんだ。パパ、乗り方を教えてくれる?」

何度も転んだ。出血もした。両親は見ていられなかったが、ジェレミー君は補助輪つきの自転車を拒否した。「それは自転車じゃないもん・・・」と。

なんとか、転びながらでも一人で乗れるようになると、ジェレミー君はこう両親に告げた。「近所を周ってくるね。パパ、ママ、そこで待っててね・・・でも僕が転んでも絶対に助けないで・・・お願いだよ」

ジェレミー君は、そう言うと、自転車に乗って両親の視界から消えた。思わず駆け寄ろうとし、追いかけようとする母親を必死で止める父親、両親にとってはジェレミー君が戻ってくるまでの時間が永遠の時間に思えた・・

ジェレミー君は、何度か転んだのだろう、でも戻ってきた。そこには転んだ傷と共に、満面の笑みがあった。ジェレミー君は人生のやり残しの一つを終えたのだ。彼の最後のやり残しは、両親に愛を伝えること。

「パパ、ママ、今までありがとう。短かったかもしれないけど、パパとママの子どもでよかった。そして僕の存在が、パパとママに愛を感じさせる存在であったこと、そのことが分かって嬉しい・・・」そう言い残してジェレミー君は8年の人生を終えた。

この話しは、多くのことを教えてくれると思う。まずは、「子どもだから・・・」という大人の思いやり、そして価値観の押し付けは、時に誤っていることもあるのだということ、人生末期における、愛の相互作用というもの、この瞬間にお互いが感じる心の動きは、音楽がもたらす感情の動きと非常に似ていることもある・・・ということ。

演奏する立場、それはアマチュアだろうと、プロだろうと、それは同じだと思うが、そのような時には、作品というものを音にしていく作業の中で、音楽をする、演奏をするという行為が、愛の相互作用というよりは、作品そのものを克服するというか、征服していくという感覚に捉われてしまうことがあるということだ。それは無意識レベルでそのような感覚になってしまうので、なかなか気がつかないことが多い。そのような感覚でピアノを弾いていると、ややもすると、ピアノを演奏する時、特に人前で演奏する時に、「自分がどう弾けるか?弾けたか?」というところに価値を見出してしまいがちだ。そのことに演奏者が気がつかない・・・

演奏を聴く時には、これまた無意識レベルで、愛の相互作用、それは作品に込められた愛のようなものを、演奏者が引き出し、それを聴き手が感じとり、その感情が演奏者にバックされていき、相互作用のエネルギーが生まれる・・・ということを求めていたりする。決して表面的な演奏の出来映えではないのだ。

でも、現実には、そのような演奏は少ない。それは演奏者の責任であるというよりは、聴く側の感性が濁っていることにも原因があるようにも思う。

「有名な人だから・・・」

自分の感性で演奏を聴いているだろうか?求めているだろうか?

「世間で~とされているから」ということよりも、自分の内側を開いて正直になってみればいいのだ。その行為は、どこか痛みをも伴うことがある。人生における愛の相互作用も、心の痛みを伴う。それは、音楽を聴くときにも同様なのだ。そして演奏をする時にも同様なのだ。

演奏する時、演奏を聴く時、子どもを教える時、一度自分の内面、本当に求めているものを見つめてみればいい。それは「ワッ、楽しい」という感覚ではないけれど・・・

でも子どもにも、その感覚は備わっているし、音楽の素人にもその感覚は備わっている・・・

この演奏は、愛に溢れた演奏のように僕には感じる。ぺナリオ作品を弾いているということ、そのものが珍しい。レナード・ぺナリオというピアニストそのものが、まず知られていないし、この曲は10度感覚が基本のようなところがあるから、手が小さいと演奏困難なところがある。でも、この曲が演奏されないのは、どこかアメリカンテイストを感じさせるからではないだろうか?「ぺナリオ?アメリカの人?ハリウッドの映画音楽も書いた?低俗な感じなんじゃない?」というぺナリオへの偏見・・・

でも、このピアニストは、作品に込められたぺナリオの愛を見事に表出している。愛に溢れた演奏だ。

この人のことは、以前にも書いた。シューラ・チェルカスキーの言葉と共に。「何故あなたが世界各地で有名ではないのでしょう?私はあなたのことを知りませんでした。もっとあなたのことを教えてください・・・」

このピアニストは日本人ピアニストであるのに、日本でも有名ではないというのは、どういうことなのか?そして何故レナード・ぺナリオというピアニストそのものが知られていないのだろう?この曲が演奏されないのは何故だろう?

ピアノの練習という行為そのものは、同じことの繰り返し的なところがあるし、弾けるようになるまでにとても苦労するところがあるから、どこか手段が目的となりやすい。なので「・・・のように弾ける」ということが目的となりやすい、なので達者なだけで表面的な演奏が多いのだ。一度自分の心の中を覗いてみるといいと思う。本当に求めているのはそれ?

演奏する人、聴く人、ピアノを習う人、そして教える人、今は正直になるということが大切なような気がする。

kaz



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category: 音楽自立人、音楽自由人

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