ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

受け狙い? 

 

有名音大を優秀な成績で卒業し、何らかの賞も得た。そのような優秀な人たちが演奏会を催す場合は、自主リサイタルになることが多いだろう。音大卒、それが有名音大であろうと、そして国内のコンペティションに入賞・・・程度(?)の経歴であろうと、それだけではバンバン演奏会の出演依頼が舞い込む・・・などということはないだろう。

むろん、全部の自主リサイタルでの演奏がそうだということではないけれど、優秀な彼らの演奏が、いささか退屈なのには、理由があるように思われる。音楽愛好家として感じるのは、彼らは、それまでの教育を受けてきた過程で、一般大衆との接点というものに乏しいような気がするのだ。何時間もピアノの練習をしてきた人生なのであろう、そして彼らの体験してきた実技試験というものも、「聴衆が温かく、かつ正直な耳で見守る」という雰囲気ではなく、教授らがズラッと居並ぶ「冷た~い」雰囲気の中で弾いてきたのであろう。

そのような過酷な空気の中で、実力を出す、そしてそれをしたからこそ、卒業できたのだとも思うけれど、でも考えてみれば、卒業して自主リサイタルをするからといって、いきなり「聴衆との一体感」とか「親和力」のような、彼らの修業時代に最も無縁だった、しかしながら、演奏というものに最も必要だとも思えるものを期待しても、それは可哀そうというものであろう。なぜなら、彼らはそのような訓練を受けていないのであるから。彼らが演奏してきたのは、「専門家が厳しく評価する場」だけであったのだから・・・

これは超絶技巧系(?)の達者なアマチュアの演奏にも共通しているように思うが、どうも彼らや優秀音大生の演奏は「自分がどう弾くのか、弾けるのか」ということしか興味がないのでは・・・という印象を持ってしまうことがある。無理もないのだ。そのような経験ばかりしてきたのだから・・・

聴いている人がどう感じるのか・・・この視点を育てるにはどうしたらよいのか?単純に考えれば、そのような機会を修業時代に体験すればいいのかなと思う。海外の音楽院のように実技試験というものを一般公開してしまえばいいのでは?フルリサイタルのできない能力の学生は音大生とは言えないと思うし、卒業させるべきではない。厳密には今の日本では無理な話だとは思うけれど・・・

一般大衆、聴衆というものの耳は厳しい。どんなに厳しく辛辣な教師の言葉よりも厳しい。なぜなら、聴き手は演奏家の教師でも親でもないのだから、「自分たちが楽しめるか」ということを期待するからだ。その演奏家の「弾け具合」などというものに関心があるわけでもないのだ。「これを練習、研鑽してきました・・・私の技量だ、さぁ、聴け!」などと演奏されても聴き手としては非常に困るのだ。

あまりにも聴き手の存在を意識してしまうと、「受け狙い」の演奏となってしまう危険性もあるかと思う。でも聴衆というものは、知識は演奏者よりも劣っているかもしれないが、バカではないのだ。「では、有名な知名度のある曲も弾けばいいのね?トルコマーチ?」とか、そのようなものでもない。大事なのは「その曲を演奏している意味、意義というものが、聴き手に伝わるかどうか」なのではないかと思う。それは「自分が・・・自分が・・・」という視点だけでは育ちにくい。

専門機関である音大では、どのような教育がされているのであろう?基本的には「専門家として、演奏家としての専門機関」であるということが前提だろうと思う。実態としては、卒業生のほとんどが「街のピアノ教師」となるのだとしても、音大のピアノ科は、ピアノの演奏というものを専門に勉強するところだ。ここは伝統の継承というものを考えると、崩してしまうことはよくないのではないかと僕は思う。ピアノ科・・・でもレッスンの実態は「街のピアノ教室科」ではいけない。音大のレッスンで導入教材を弾いたりとか、それはいけない。講座のようなものならいいと思うけれど。レッスンでは、その学生が将来どのような道に進もうと、それが建前であろうと、ピアノの演奏を勉強するところだ。

でも、あまりにも「その曲をどう弾くのか?」というところだけに留まっていないだろうか?演奏というものは演奏者だけでは成り立たないものなのだから、作品と自分、そして聴き手との共有、そしてそれを具現化して、どのように卒業後の演奏活動というものを展開していくか・・・という視点までも音大の教育において必要なのではないだろうか?優秀な日本の音大生や卒業生の演奏を聴いていて、そのようなことを感じる。自主リサイタルだと、そのあたりの微妙なところを演奏者が意識しなくても開催できてしまう危険性がある。

芸術と「サービス精神」というものは共存できないのであろうか?「サービス精神」が言いすぎであれば、「聴き手のことを少しだけ意識する」とでも言おうか・・・

このピアニストはイタリアのある会場で弾いている。ワスゲン・ワルタニャンというロシアのピアニスト。モスクワ音楽院とジュリアード音楽院で学んだピアニストだ。基本的には、このピアニストのリサイタルは主催者がいて、ピアニストは集客のためにチケットを手売りする必要はない。ピアニスト本人がイタリアに住んでいるわけでもないので、本人は集客そのものができないだろう。欧米での演奏会の基本的な形だとも言える。

「まぁ、お客さんを集めてくれるのね?行って弾くだけ?いいわぁ・・・楽だわぁ・・・」

ただし、この形の場合は厳しい条件がある。リスクは主催者がすべて負うわけだから、「聴衆がどう思うか」という視点が加わってくる現実がある。聴衆の大多数が「退屈ね」と判断したら、ある意味、その演奏家は終わりなのだ。演奏家としては「また依頼してくれるだろうか?また呼んでくれるだろうか?」という現実がある。これは厳しい。呼んでくれなければ、演奏を依頼されなければ演奏家ではないのだから・・・

このワルタニャン氏の演奏、演奏が素晴らしい・・・とか、そのようなことではなく、自主リサイタルが中心の日本の若手からは、なかなか聴くことのできないタイプの演奏であり、選曲であるとは言えるだろうと思う。編曲も彼自身が行っている。

これを「受け狙い」と感じるかどうか・・・

でも、個人的には「研究発表会」のようなリサイタルは、もう聴きたくない。

kaz



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category: 音楽自立人、音楽自由人

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