ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

流れる・・・ 

 

「ソナチネとか、あまり興味を示さなくて・・・」「バッハも重要だと思うんだけど、練習しないのよね。まぁ、キャッチ―ではないからかもしれないけれど・・・」

生徒が興味をあまり示さない、つまり練習をしてこないようなケースが出てきた場合、ピアノ教師としてどうするだろう?

ここで健全な形なのは、色々な考えというものが存在しているということだと思う。僕自身の考えというものはある。でもそれは僕の考えであって、「ピアノ教育界がそのような考えになっていくべきだ」というのとは少し異なる。

「生徒の興味の持てる曲を中心に」

「いや、やはり落とせないものはあるはず。嫌がろうが何だろうが、大切なものは落とせない」

・・・のように、考え方にはそれぞれ違いがあっていいと思う。

「すべての生徒が目を輝かせて生き生きと、楽しくキラキラと・・・それがピアノのレッスン」

「自分自身、ピアノを弾いてきて教師になった。辛いこともあった。楽しいことばかりではなかった。でも弾いている。そこを教える、伝えるのが本当なのでは?」

・・・のように、ピアノのレッスン、指導というものは、スタンスの違いというものがあって本来は当然のもののような気がする。人間が人間を相手に、それも個人を相手に行われるものだし。

ちなみに、個人的には、今現在を楽しくではなく、ピアノのレッスンというものは、「弾けるようにすること」だと思うので、「ソナチネがダメならJポップ」とか「楽しくワクワクだけを重視」というのは、どうかと思っている。でも僕はそう思う・・・ということであって、すべての教師がそのように考えるようになるべきだ・・・と言いたいわけではない。

それぞれのスタンス、それぞれの方向性、それぞれの指導法・・・

これが困難な理由は、答えが外の世界に転がっていないからだろうと思う。答えはその人の胸、頭の中にあるものだから、正直にそこを見つめなければならない。ここが難しい。「どこかにいい指導法はないかしら?」と外を見るほうがはるかに簡単なのだ。

危惧されることは、あまりにも「一つの方向性に、極端に流れていないだろうか?」ということだ。

今の時代、「ピアノとは基本的に難しいもの。そんなに簡単なものじゃない。適性を欠く子どもだっているはず。ピアノよりも剣道が合っている子どもだっているはず。そのような子まで、楽しさで釣る・・・が言いすぎならば、救おうとするのはどうなのだろう?」という考えを持つ教師がいたとして、それを表明できるような空気だろうか?どうだろう?

ピアノに限らずだが、何事も、あまりにも一定方向に考えが偏る、固まると、主流派と異端派というグループ分けが自然とできてしまう。異端派はそれぞれが孤独だが、主流派は協力な力を持つ。大きなグループになるから・・・

ここに違和感を感じる。

kaz

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