ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

専門ピアノと街ピアノ 

 

僕が所属しているピアノサークルのメンバーにはピアノ教師の人もいる。別に「アマチュア限定」としているサークルでもないので、ピアノ教師だって参加できるのだけれど、でも数は少ない。

ピアノ教師のブログを徘徊しても、自分の生徒のレッスンのことは書かれているけれど、自分の演奏について書かれていたりすることは、まずない。むろん、中には自分自身のピアノというものを重視している教師だって多数いると思うし、実際にそのような人も知っているけれど、基本的にはピアノ教師のブログの内容は「今日のレッスンでA子ちゃんが素敵に弾けましたぁ」のようなものが圧倒的に多い。

もし、自分の演奏というものを、教えることを職業としたとたんに、バタッとやらなくなってしまうとしたら、これは不思議なことではある。ピアノ教師のほとんどは、音大のピアノ科という専門機関を卒業しているはずだからだ。そこでは、基本的には「専門家としてピアノを演奏する」ということを勉強してきたはずだ。現実問題として、音大にもレベルがあるとしても、でも専門機関なのだから、「今期の試験は自由曲だから、アナと雪の女王のレット・イット・ゴーを試験で弾きたいんです」という学生はいないだろうし、許可する音大の先生だっていないだろうと思う。

では、なぜ「今までやってきたこと」をバタッとやらなくなってしまう(ような印象を与えてしまうブログを書く)先生が多いのだろう?

おそらく、音大のピアノ科を卒業して、いわゆる「街のピアノ教室の先生」として新たなスタートをした時に、現実の厳しさを体験したのではないだろうか?それまで自分は、一生懸命ピアノを練習してきたし、練習しないでレッスンを受けるなんていうことも基本的にはなかったはずだ。音大の先生のスタンスだってそうだ。現実として、どんなにピアノ演奏で食べていくことが困難な世の中があり、またその生徒の技量が実際にそのように感じられるものであったとしても、「卒業したら演奏で食べていくんじゃないんでしょ?じゃあ、いいじゃない、楽しくJポップでも弾いていれば」なんて言う音大の先生はいないはずだ。

でも、現実には「宇宙人のような生徒」も現実の街の教室には習いにきたりする。「練習なんて嫌いで~す」とか「私はピアノなんて興味がありませ~ん」のような不思議とも思える生徒の存在・・・

レッスン中、目を輝かせて・・・どころか無反応で、教師が「なんでピアノを習いに来ているのだろう?」と感じてしまうような生徒もいたりする。親だっていろいろな親もいるだろうし・・・

でも職業だし、お金を頂いているわけだから、「私のレッスンを受けにくるなんて猫に小判だわ」などと心の中で投げ出してしまうわけにもいかない。

どうも世の中のピアノ教師のブログが「素敵に弾けたA子ちゃん、楽しく弾けたねB子ちゃん」という感じになりがちで、内容も教材研究とか、それに関するセミナー中心のものになり、どこか「自分のピアノ」「自分の演奏」というものが置き去りになる理由としては、現実に対処しているピアノ教師、現実の厳しさに対処している教師が多いということなのではないだろうかとも感じる。つまり、「困ったチャン」を捨ててしまうことはできないわけだから、「なんとかしなければ」「工夫しなければ」と思うわけで、ここの部分がとても大変で重いのだろうと思う。

基本的に僕のようなアマチュアのピアノ弾きは職業というものを持っている。それはピアノというものとは全く異なることを「プロフェッション」としていることでもある。なので、ピアノを弾くということは、時間的な制約とか身体的疲労感ということはあるけれど、どこか「現実からの逃避」=「心の安らぎ」のような感じ方をピアノから受けることも可能だ。だが、街のピアノ教師で、宇宙人問題(?)に対処し、「なんとかしなきゃ」とか感じている場合、自分の演奏もピアノだし、現実問題もピアノだし・・・ということで、かえってアマチュアよりも精神的には厳しい状態なのでは?なので「自分の演奏」というものから遠ざかってしまったりするのでは?

なんとか教師の工夫、そして研究の成果が実り、宇宙人状態(?)だった生徒もピアノを続けられたとしよう。その時だ。ある程度上達すると、いや上達したからこそ感じることだと思うのだが、やはりピアノというものは簡単なものではないということだ。「ああ・・・このように弾けたら」でも現実にはそう簡単には弾けるようにはならない。ピアノ教師の人だって自分自身のピアノ道を振り返って「ピアノって楽しいことばかりだったし、音大卒業までの道のりだって辛かったことなんて全くなかった、すべてバラ色だった・・・」なんていう人は、おそらく皆無だろうと思う。ピアノって大変なのだ。難しいのだ。

その時、生徒を引っ張れる教師は、自分自身のピアノで悩んでいる教師なのではないかと思う。「ピアノって大変・・・でもね・・・」の部分。言葉で語らなくても、生徒が感じる部分でもあるし、悩んでいる教師だけが持つことのできる説得力の存在する世界であるとも言える。教師が完全に自分の演奏、自分のピアノというものと生徒のレッスンというものを切り離してしまった時、ここで自分の生徒を引っ張ることは非常に困難なように思える。

「誰にでも合う靴なんてないだろう?ピアノの指導だって同じさ・・・」

名教師、サッシャ・ゴロドニツキの言葉。これはピアニストではなくピアノ教師の言葉のように僕には感じられる。彼はジュリアード音楽院の名教師だった。黄金期を支え、創りあげた名教師。ピアニストとしてよりも、やはり教師として名高い人だと思うが、彼はどんなに教えることで多忙でも「自分のピアノ」を忘れることはなかった。「いつも教えていた人」という印象があると、彼に習ったピアニストが言っていた。忙しかったのだろうと思う。「いつも学校にいたね。朝から晩まで・・・」

でもゴロドニツキは弾き続けていた。むろん、ジュリアード音楽院の学生は「練習してきませんでした~」とか「ピアノなんて大嫌いで~す」、「ポップスとか好きな曲なら弾いてもいいかも?」なんて言わない生徒ばかりだったと思うし、彼自身も「生徒に興味を持ってもらうには?」「どうしたら練習してくるようになるのだろう?」なんていうことそのものには、あまり悩んだりはしなかったとも思う。

でも彼は多くの生徒を引っ張ったのではないだろうか?

自分のピアノというものがあった。

だから名教師と言われた。多くの生徒が世界中から集まった。

専門ピアノと街ピアノ・・・かけ離れているようで、共通していることもあるのではないだろうか?

kaz



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category: ピアノ雑感

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