ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

なぜ練習しなければいけないの? 

 

ピアノが好きで好きで、練習も好きで好きで「もういいかげんにピアノやめて!ごはんよ!」などと親が言わなければ、いつまでも練習している・・・こんなピアノ好きの子どもばかりだったら、ピアノの先生も、さぞかし嬉しいだろうと思う。普通は、音楽やピアノは嫌いではないみたいなんだけど、家では練習しないタイプの子どもが多いのではなかろうか?

子どもも「練習しなくちゃ」とは一応思ったりはしている。先生も練習してねと言うし、親はもっと言うし、自分でも思ったりはしている。

練習、それには目的があるはずで、「~のために練習しているのだ」という明確な目的がなければ、練習は辛いものとなる。一般的に、練習すると何があるのかという、その目的だけれど、「弾けるようになる」ということが目的になりやすい。

「Aちゃん、きれいな音で弾けるようになったね」「B君、間違えないで弾けるようになったね」

ここが目的となりやすい。これは目的なのだろうかと考えてみる。もし、この部分が練習の目的となってしまうと、子どもにとっては、先生から「弾けるようになったね」と言われて、その曲が合格し、次の曲に進んでいくという繰り返しになるのではないかと思う。練習して弾けるようになっても、新たな課題は、また練習しなければ弾けないわけだから・・・

できなかったことが、できるようになる、それを繰り返していくことで得られるものはある。達成感のようなもの。練習するのは達成感を得るため?違う・・・と心の声が叫ぶ。僕の心の声が叫んだとしても、それがどうした・・・と自分でも思うけれど。

ピアノを練習する目的は、脳の活性化のためでも、達成感を味わうためでもない。練習して「できた!」という瞬間が、音楽への道筋につながる・・・というか、心や胸の中が温かくなるような、時には苦しくなるような感覚を、聴くときだけではなく、自分でも「実際に触れている」という感覚・・・とでも言うのだろうか、そこにつながっていくという感覚・・・

これは練習メニューとして先生が提示するのが難しい部分なのではないだろうかとも思う。これは子ども(生徒)が見つけていく、切り開いていく・・・のような部分でもあるのでは?

練習・・・弾けるようになる・・・何かに触れることができるチャンスを得られる・・・崇高な何かにつながるという感覚・・・

そりゃあ、子どもだって、練習して今までできなかったことができるようになれば、嬉しい。「弾けるようになったね」と言われて、瞳がキラキラ・・・

先生も嬉しい。でもそこが目的ではないような気がするのだ。

なぜ練習して弾けるように・・・ということを繰り返していかなければいけないのか?そこの目的というものが見つけにくいし、迷いの森に入りやすいところでもある。「弾けるようになる」というのは目的ではなく、手段なのではないかと思う。手段が目的化してしまうと、いつか子どもはピアノを辞めるかもしれない。練習の意味、意義が自覚できないもん。

では目的は?なぜ練習するのだろう?なぜ練習して「できるように」していくのだろう?

kaz



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