ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

曲を弾くピアノではなく曲で弾くピアノ 

 

僕の場合、ピアノとは、楽譜があり、それを一つ一つ音にしていって曲として再現していく行為というのと少し異なるのかもしれない。むろん、譜読みをして曲にしていくのだけれど、どうも「再現」という感覚に乏しいところがある。

これは幼少の頃もそうだった。なんとなく内側から溢れる何かを鍵盤に乗せるという、乗せたいという願望があったような気がする。なので即興演奏、というか遊び弾きが好きだったのだ。楽譜の仕組みを習い、音にしていくという当時のピアノのレッスンとは、どこか相容れない部分はあったと思う。方向が全く逆だったというか・・・

しかしながら、僕には「作曲をしたい」という願望はない。自分の中の何かを自分で音にして作りたいというよりは、すでに世の中に存在しているピアノの曲に自分の中の何かを反映させたいという気持ちの方が強い。

最近、思ったりすることなのだが、たとえばショパンのバラードを弾く・・・弾きたいと思う時に、多くのピアノ弾きは「聴いて憧れる」=「音を読んでいく」=「再現していく」という道筋を通るみたいだ。「この曲、憧れの曲だわぁ・・・」とその曲をただ再現していくというか・・・

僕の場合、曲の再現・・・というよりは、その曲を聴いた時に自分の中に溢れた「何か」をその曲で再現したいという願望なのだと思う。なので、ショパンのバラードを弾きたいな・・・というよりはバラードを聴いた時に自分の中で動いた「何か」、そしてバラードに存在している「何か」を音にしたい・・・などと思う。

子どもの頃に習っていた先生は、あまり教材研究に熱心ではなかっというか、どの生徒にも同じ教材を使用していたし、音を並べて弾ければマル・・・というレッスンだったように思う。もし、現在のように教材も百花繚乱状態で、子どもの心をくすぐるようなキャッチ―なもので、様々な最新機材を使用した斬新レッスンであったとしても、自分の中の「何か」を外に・・・という方向性の含まれたレッスンでなければ、僕はやはり困ったチャンで終わっていたように思う。曲を作りたいわけではなかった。メロディーが思いつかなくても良かった。既存の曲でも「外からの情報を忠実再現」というピアノではなく、「自分の中の何かとピアノの曲との一致」というレッスンが欲しかった。

ヤッシャ・ハイフェッツはジム・ホイルという名前でポピュラー音楽を作曲していた。さらにハイフェッツ名義での多くのヴァイオリンの編曲作品を残した。彼も「自分の何かを外に」という方向性を持っていたのでは?

あの頃の演奏家は皆そうだったような気がする。演奏家が自分で作曲や編曲をするということも現在とは比較にならないほど多かったし、しなかった演奏家も「忠実再現」というか、「外情報」を完璧に再現した演奏というよりは、中から外、中にある「何か」を感じる演奏が多かったようにも思う。

「その曲を弾く」ではなく「その曲で弾く」・・・

kaz



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