ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

需要と供給 

 

AとCというアメリカで活動しているピアニストたちと過ごし、そして会話をしていると、僕のようなアマチュアでも「あなたはピアニストとしてどう思う?」なんて言われることがある。「そんなぁ・・・ピアニストだなんてぇ・・・」と日本人である僕などは思わず反応してしまうのだが、この場合のピアニストとは「ピアノを弾く人」という意味なので、そのような意味では僕もピアニストになるのだ。舞い上がることもないのだ。

日本人の感覚とすると、このあたりは慣れないところなのでは?ピアノを習っている生徒はピアノ学習者であって、ピアニストと呼ぶことはあまりないし、ピアノ教師でもピアニストと自称する場合は、定期的なリサイタルなどを行う人になるのではないだろうか?発表会の講師演奏でしか演奏しないというピアノ教師は「私はピアニストです・・・」と普通は言わないのかもしれない。でもアメリカではピアノを弾く人はピアニストなんだねぇ・・・

単に言葉の捉え方なのだと思うけれど、なんだかこの違いは面白い。

職業ピアニストとしての捉え方も日本とアメリカでは違いがあるような気がする。つまり、プロのピアニストという認識の捉え方の違い。

日本でもピアノのリサイタルは毎日、大都市では一日に複数会場で開催されていたりする。外来ピアニストは別として、日本人ピアニストのリサイタルの多くは自主リサイタルなのだと思う。でも「自主リサイタル」とチラシやプログラムに明記されているわけではないし、立派なホールに8割~9割も聴衆が埋まっていたりして、「わぁ・・・活躍しているんだぁ」などと思ったりもするが、実は自主リサイタルの場合、演奏者がチケットを売りさばくということをしなければならない。3000円のチケットで250人ほど埋まっているとしても、その金額が演奏者の利益になるわけではない。自己負担で会場を借り、チラシ作製などの費用も自分で負担している場合がほとんどらしい。

このチケットの手売り、つまり頭を下げて「リサイタルをします・・・よろしくお願いします」と関係者や知人、友人に頭を下げてチケットを渡し売ってもらうということを全くしないですむピアニストは日本ではかなり限られた人だけになってしまうようだ。華やかにピアニストとして活動しているように思える人でも、手売りはしているらしい。現実は厳しい・・・

アメリカの場合、あまり(ほとんど?)自主リサイタルという形はないのだと聞く。どこか音楽事務所に所属して、仕事の依頼があれば、そこに出掛けていって演奏し、ギャラを貰う。むろん、チケットを自分で売りさばく・・・なんてことはしない。集客はピアニストの仕事ではない。事務所の仕事だ。日本でも外来ピアニストのリサイタルはこのケースだろうと思う。

集客しなくてもいいし、ただ演奏するだけ・・・楽だわぁ・・・と思うけれど、この場合は仕事(演奏会)の依頼がなくてはピアニストとして名乗ることすら難しいという非常にシビアな世界に身を置くことにもなる。つまり「今度リサイタルをやりますから・・・」ではなく「リサイタルをしてください・・・」という依頼が基本的には継続していかなければ、職業としては成り立っていかない・・・

個人的には自主リサイタルのシステムはピアニストにとって、いいことなのではないかと思ったりする。ピアニストも人間だから、人前での演奏を重ねることによって成長すると思うからだ。最初は会場は関係者ばかり、知人や親せき総動員で・・・という自主リサイタルでも、会を重ねていくうちに、「よかったわね・・・」「○○さんのリサイタル、よかったわよ、こんど聴きにいってみない?」などと聴き手の広がりが出てくる可能性もある。演奏者の成長と共に、聴衆もついてくるというか・・・

アメリカのようなシステムだと、音楽院を卒業とかコンクールやオーディションを受けまくるという、人生のほんの一時期の才能や運によって、その後の活動や人生までもが決定されてしまう気がする。成長していくチャンスすら与えられない人も多いのでは?

欧米では純粋に「音楽を聴きたいな・・・」と思っている人が日本より多いのだろうか?学生のゼメスター試験、このようなリサイタルでも一般の人が結構アメリカの場合、聴きにきていたと記憶している.。自分もその一人だったわけだが・・・

演奏者の学歴やコンクール歴に関わらず、「ピアノのリサイタル?聴いてみようかしら・・・」と思う人が単純に欧米では日本よりも多いのか?

そうなのかもしれない・・・

でも、これには自主リサイタルが盛んなことの危険性とも関連しているのかもしれない。自主リサイタルの場合、曲目も演奏者の自由だし、中にはどうしても「練習の成果」「研究の成果」のような演奏も含まれてきてしまうのではないか・・・

個人的な感想では、日本では「研究発表会」のようなリサイタルは多いような気がする。「どれだけ演奏できたか・・・」という意識が演奏者に多く、「どう聴こえたか、どう感じてもらえたか・・・」という聴き手中心の捉え方のやや乏しい演奏会が多いような気がしている。達者度、練習密度という点では隙がなくても、根本的な演奏としての惹きつける魅力に乏しい演奏しかできない人でも、演奏会を継続していけるという危険性はあるのでは?

アメリカのようなシステムだと、演奏者は必ず「また呼んで頂かなければ・・・」という再演依頼のような形に自分の演奏を評価してもらわなければならない。演奏者自身が「練習の成果が出せた!」といくら思っても、「また聴いてみたいわ」という人の存在を作っていかなければ、そこで終わりというか・・・

まぁ、一長一短なのでは?どちらのシステムも・・・

AもCも自分でチケットを売りさばいたという経験は持たない。なので、自主リサイタルしかしないピアニストのことを「それじゃアマチュアでしょ?」と言う。でも日本ではこの考え、認識は少し厳しすぎるような気がする。

クラシック離れ、聴衆が育たない、達者なだけの演奏、リサイタルのシステム・・・いろいろなことが水面下で絡んでいるような気はする。

個人的には日本人が欧米の人と比較して西洋音楽に関しての感性に乏しいとは思わない。いい音楽を聴きたいと感じている人は相当数いると思う。でも供給と需要の関係において、何かがチグハグという印象を持つ。これを「文化の違い」とか「歴史の違い」というようには自分の中で思いたくはない。

この演奏、実にアメリカ的だな・・・と思う。需要と供給という意味において。この二人はお互いにジュリアード音楽院の学生だった時に知り合い、「何か面白いことやってみない?」ということで意気投合し、それがデュオという形での「供給希望」となった。そして聴衆の「需要」というものと見事に一致していった・・・

日本ではなかなか生まれにくいピアニスト・・・のような気はする。

日本でも、彼らのような演奏、演奏家に対しての滞在的な需要は多かろうと思うがどうだろう?

kaz



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category: ピアノ雑感

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