ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

ピアノが上手くなりたい! 

 

今日はサントリーホールに演奏会を聴きに行った。ピアチェーレの演奏会にも聴きにきてくれたピアニストでピアノの先生の演奏。素晴らしかったと思う。思わず聴き入ってしまった。それは、表面上、整っていたとか、そのようなことではなく、演奏者の内なる何かが演奏というものに明確に表出されていたからだ。このような演奏は残念ながら非常に少ない。

演奏する側の観点からだと、演奏というものは「いい演奏」「まあまあの演奏」「少しだけ何かが足りないけれど整理された演奏」・・・など無数に段階があるのだろうけれど、聴く側からすると、演奏というものは単純に「惹きこまれる演奏」と「退屈な演奏」にしか分けられない。どんなに練習の成果を感じ、ミスもなく粒も揃っていて、そして弾きこまれていても、退屈な演奏は退屈なのだ。まことに聴き手というものは残酷なものなのだ。

本日の、その方の演奏は、非常に心に沁み渡り、訴えてくる演奏であったので、具体的な感想をさらに書いていってもいいのかもしれないが、今日の感動を、ちょっと異なる形でブログには残してみたいと思った。自分への忘備録というか覚書というか、今日の感覚を忘れずに、自分の演奏というものに少しでも生かしたいというか・・・

ピアノを習っている人の中には、音さえ並べられればいいという考えの人もいると思う。それはその人の考えであるし、一つの考え方であると思う。でも僕は、素晴らしい演奏に接したら、「自分もあのように弾きたい」と思う。僕のように感じる人は多いのではないかと思う。この想いはプロだとか、音大生だとかアマチュアだとか、そのようなこととは関係なくあるもののような気がする。「自分もあのように素敵に弾けたら・・・」という熱望・・・

今日、もう一つ感じたのは、偉大な歌手の歌を聴く重要さを再認識したこと。偉大な歌手の歌は、ピアノよりも「どのように偉大な演奏というものが成り立っているか」ということを明確に示してくれているように僕は感じる。

歌を聴かなければ・・・ではなく、逆の発想をしてみたらいいのだと思う。自分の演奏に足りないところを考えてみればいいのだ。そのところを偉大な歌手は教えてくれると考えたらどうだろう?実際にメールで僕に訴えてくる人の数から想定しても自分の演奏には何かが足りないと感じている人は相当数いると僕は感じている。

最も多いのは「ただ音を並べているようにしか弾けない」という悩み。練習を重ねれば、弾けない箇所は弾けるようにはなるし、それなりには弾けてはくるのだが、それ以上のところへどうしてもいけない。強弱はつくけれど、表情がつかないというか・・・

先生に相談しても、「まっ、練習しかないわね」とか「いい音楽を聴くことです」なんて逃げられてしまう・・・

僕が思うに、「並べ弾き」の人に共通しているのが、移動と打鍵が同時であるということだ。ピアノはタッチが命。ピアノは弾く・・・というよりも、圧力をかけてコントロールしながら鍵盤を「押し込んでいく」という感覚の方が近いような気がする。移動と同時のタッチだとコントロールがつかないし、下部雑音の多い音しか出せない。強弱はつけられるけれど、奥行きがないというか平面的な音の羅列になってしまう。ピアノのタッチは「準備」が命なのだ。キーを押す前に必ず鍵盤上での指の「待ちの時間」「準備の時間」が必要なのだ。それがないとコントロールできない。なぜハイフィンガー奏法がいけないのか、それは準備がしにくい奏法だからだと思う。押すではなく「打ち下ろす」という感覚に近いものになってくる。

もう一つ、「並べ弾き」の人に多く聴かれるのが、「弾きすぎ」ということ。よく「鍵盤の底まで弾きましょう」などと言われるが、底まで弾いたら弾きすぎなのだ。鍵盤を押すと、最初に音の鳴らない部分がある。そして音が鳴る部分、そこを通り越して下まで弾くと、また音の出ない部分があるはずだ。この音の鳴る部分を「狙う」という感覚が必要だと僕は思う。途中の微妙な部分で「音を作っていく」のが大切なのではないかと。下まで全部弾いてしまうと、とても頑張っているという演奏にはなるとは思うけれど、そして楽観的、かつ好意的に感じようとすれば、明朗な演奏とも感じられるのかもしれないが、どこか「ラジオ体操の伴奏的演奏」のようなものに近くなってしまう。この弾き方でショパンもラフマニノフも弾いてしまおうとするのは、少し強引のような気がする。

ここまでは「発音」、そのための「準備」「コントロール」という話。もう一つ、そして偉大な歌手たちが最も明確な形で演奏に残してくれているのが、「音のエネルギー」ということだ。ピアノは押せば音が鳴ってしまうし、音の数が多いので、どうしても「視覚からの情報(楽譜)をただ習慣的にピアノに移してしまう」ということを無意識に行ってしまう。ドレミファソ・・・とあれば、視覚情報そのまま、ただドレミファソと弾いてしまう。実はドレミファソは、音が上昇しているので、そこにはエネルギーの増大があるのだ。「気が増大していく」と言ってもいいかもしれない。そこにはエネルギーが生まれていくのだ。歌だと、それが自然につきやすいのだが、ピアノだと相当意識しないとエネルギーや「気」というものは演奏に反映しない。

ドーソという上昇の音型があり、ソにアクセントがあった場合、習慣的に弾いていただけ、視覚情報を楽器に移していただけの人は「ソを強くするのね」と無意識に思う。そうではなくソの上のアクセントはドとソの間の緊迫感を作曲者は表そうとしたのかもしれない。重要なのは「強い音のソ」ではなくドからソの間のエネルギー増大なのかもしれないのだ。偉大な歌手の歌は、そのようなことを実に明確に演奏に反映させているし、ピアノを弾く場合への応用というものも示してくれているように思う。

レメシェフの歌うラフマニノフ・・・たった2分ほどの音世界・・・

でも、彼の歌には、上記のすべてが明確な形で実践されている。

音が上昇していく・・・クレシェンドしていく・・・かな?もしかしたら作曲者は「憧れ」が増大していくのを表現して欲しかったのかもしれないよ・・・

歌を聴こうよ!

kaz




ピアノ ブログランキングへ

にほんブログ村 クラシックブログ ピアノへ
にほんブログ村
スポンサーサイト

category: ピアノ雑感

tb: --   cm: 2

△top

コメント

 

歌ってしまうともっと良いかも・・

kazさん、
先日はありがとうございました。・・・とここへ書くのは図々しいかと思いましたが、kazさんの考察がとても素晴らしいので、ここへ書かせて頂きます。

本当に、そうです。

ただ、ドと書いてあったらドの音を外さずに叩くということではないのですよね。準備があり、沢山の要素(スピードや深さや時間など)を感じながらひとつの鍵盤を動かし、そして、「歌う」。

歌を聴くのももちろん良い勉強と思いますが、自分で歌ってしまうともっと良いかもしれません。

私、弾きながら喉が動いています、かすかに。。でも、喉から声を出すのではなく、声はピアノから出ているのです。

先日の曲にもありますが、女声では出せない低い音程の重要なメロディーが、
ピアノからなら出るので、気持ちいいです。どんな低い音も、逆にどんな高い音も、自分の喉からは出せなくてもピアノからなら出るので、凄く、気持ちがいいです♪(^^)

ピアノが自分の体の一部と思って、歌ってみると良い練習ができるかもしれないです。

Megumi #3/2tU3w2 | URL | 2015/01/15 14:14 | edit

Megumiさま

「歌ってみる」ということですが、すでにやっているといえるかもしれません。声楽曲、特に歌曲で遊ぶのですが、好きな歌手の歌声に合わせ、一緒に歌いながら伴奏をピアノで弾いて自己陶酔したりしています。

また、歌のパートを歌いながら弾いたりとか、いろいろと遊んでいます。

もしかしたら、ピアノの曲を練習している時、人前で演奏している時にも効果が出ているのかもしれません。ただ、自分の意識としては「練習」とは思っていないところがあって、完全に「遊び」感覚です。

本番前に歌曲で遊んでばかりいたりすることもあります。

意識的にピアノの練習にも取り入れてみたらいいのかもしれませんね。

kaz #- | URL | 2015/01/15 21:29 | edit

△top

コメントの投稿

 

Secret

△top