ピアノのある生活、ピアノと歩む人生

「ピアチェーレ」代表の私的ブログ

一体感の連結作用 

 

クラシックが苦手な人の共通した意見として、「クラシックの演奏会って対話がない、聴き手との一体感が感じられない」という意見が多い。「小難しい」とか「退屈」「解らない」と彼らが感じるのは、「一体感の欠如」というものが大きな要因となるようだ。

クラシックの演奏会でも実際に客席から手拍子が起こったりとか、一体感の生まれやすい場面はあるけれど、でもこれは例外的なのではないだろうかとも思う。基本的には聴き手は曲が終わるまでは音を立てずに静かに聴いているのが普通だ。

一体感の欠如というもの、これは演奏に責任があるのだと僕は思う。どんなに演奏が表面的には達者であっても、聴いている人が退屈してしまえば、その人は居眠りをするか、プログラムを眺めるしかやることはなくなる。「まだ終わらないのかな・・・」と感じつつ。

クラシックを聴きこんでいる人ならば、退屈の原因は演奏にあると判断するのだろうが、そうではない場合、演奏からの印象というものは曲の印象との総合的なものになりやすい。「クラシックってつまらない、難しい・・・」と思う人がいるのは、演奏がつまらないからなのでは?曲そのものは芸術として評価されているものなので、退屈の原因は自分の知識のなさ、感受性の低さだとどこか思う。なので「退屈と感じた自分」を「クラシックはわからないから・・・」と思う。

演奏会が近づいているから、なおのこと思うのかもしれないが、「自分がどのように弾けるか」という部分を本番で発揮してしまうと、それが聴き手に伝わってしまうと思う。でもそれでは、演奏者の必死な様子とか一生懸命さは伝わるのかもしれないが、音楽としては伝わるものがなくなってしまうのではないか・・・

「よく練習してあるわ」とか、「よく指が動くのねぇ・・・」「ミスなく弾けて凄い」とか・・・この部分に共感するということは、たまたまその人もピアノを弾いていて、演奏者の、そこに至るまでの過程というものが理解できて、演奏者の裏の苦労、または自分との比較という聴き方が成り立つ場合なのかもしれない。でもそれは「感心」なのでは?「感動」ではなく。そもそも「感心」を伴う音楽の聴き方そのものが特殊であると思う。

別に手拍子が起こらなくてもいいのだ。そのようなことではない。でも聴き手との一体感が欲しいとは思う。それは演奏者が意識して望んで得られるものではないとも思うが、でも退屈されてしまい、曲が終わってお義理で拍手・・・これはイヤだ。

「ああ、やっと終わった・・・」という解放感(?)からの拍手はイヤだ。そのような空気は残酷なほど伝わるから。会場が「退屈だな・・・」という空気に支配されるというか・・・

演奏者が本当に内から音楽を愛していて、共感する部分がある。そしてそれが伝わる。「いいよね・・・この曲、いいよね・・・」という根本の部分。そこが伝わる。「いいね・・・本当にいいね・・・」と聴き手も感じる。そのエネルギーが一体感として連結する瞬間・・・

この瞬間がエクスタシーなのだと思う。

これは、エディ・ヒギンズの一体感ある演奏。「いいよね・・・」「そうだね・・・いいね」・・・演奏者、聴き手、そして音楽との連結・・・



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